祝 パドアの聖アントニオ司祭教会博士の記念日

「…先だっては、リミニで魚に説教したという話しですよ。…魚がみんなマレッチア川の表面まで出てきて、アントニオの話しを聞いたそうです!」
「まさか!」
「でも、そういううわさなんです。彼は、あのあつかましい異端者の誰かに説教していました。…あの、この世を楽しく生きるべきだと思っていない連中のことです…」
「ええ、そして?」
「そしてね」最初の男は、自分の話しに熱中して続ける。「その異端者どもは、彼が川ばたで説教をした時、聞こうとしなかったんですが、そしたら、アントニオはどうしたと思いますか。アントニオは彼らに背を向けて、魚に説教を始めたんだそうです。ちょうどアシジのフランシスコが、小鳥に説教をしたように」
「そんな!」
「そうなんですってば。それから、どうなったと思います? アントニオが魚どもに、美しい清らかな水や、緑の水草や、豊富にある食物やらの、神様がくださった賜物について話し始めると、魚が全部水面に上がってきて、アントニオが話すことをじっと聞いていたそうです。 すると、アントニオは異端者の方を向いて、こう言ったそうです。『私は、あなたがたの不信がいっそう不思議なものとして驚かれるように、魚に向かって話しました』するとですよ、異端者たちは非常に心を打たれたので、アントニオによって福音の真理に改宗したそうです」…『パドアの聖アントニオ』ノーマン・ペインティング、マイケル・デー共著 中央出版社刊P147~P148より

…「ねえ、ルッジェロ」アントニオは言った。「時が過ぎるにつれて、人生観がどんなに変わるか考えてみれば不思議なものだね。自分自身の知識に盲点があるというのは、不思議なことだ。ぼくはキリストに従わんがために、キリストに一致しようと努力して、いつも自分自身のことを考え続けてきた。ほくはキリストを求め続け、自分の難儀や試練や闘争や犠牲や誘惑や、キリストに至るまで乗り越えなければならないものすべてを考え続けていた。ぼくはこのキリストとの一致を、努力して得る報償、獲得されるべき理想だと思っていた。だからこそ、それを手に入れようとして落ち着いていられなかったのだ。ぼくは間違っていたことが分かったよ」
ルッジェロは当惑してアントニオを見つめた。
「間違っていたと?」彼は叫んだ。「しかしアントニオ、どういう意味だ?それがキリスト教徒としてのわれわれの人生ではないか。われわれは神との一致という目標めがけて、たえず前進しなければならない旅人ではないか」
「君の言う通りだ、ルッジェロ君。しかし、それは真理の全体ではない。そこでぼくは間違ったのだ。」
「では、今は真理全体を知っているのか」ルッジェロは言った。
「多分まだ全部ではあるまい。しかし目があいて、今までよりはっきりと、より深く人生の意味が分かるようになった」彼はことばを切り、話題を変えるかのように言った。「エマオへの途上にあった二人のお弟子に起こったことについての聖ルカの記述を覚えているかい?」
「主と道連れになって歩いていたのに、それを知らなかった話のことかな?」
「そのとおりだ」アントニオは言った。「それが、ぼくが一生を通じてしていたことなのさ。ぼくは主を求めた。次の丘を越えればそこに主がましますだろうと思った。しかしずっと主はこちら側に、いつもぼくとともにましましたのだ」
「少しボクには深淵すぎるな」ルッジェロは答えた。
「ぼくは、キリストがわれらのために死に給い、そのご生涯の模範と恩寵を残されたことを知っている。しかし死の時までは、主とこの身をもって共にいることはできないのだ。それまでは、われわれはその分を尽くさなければならない」
「ああ、ルッジェロ、君はちょうどぼくがあれほど長い、駆り立てられるように落ち着かない年月の間考えていたとおりのことを言っている。そう思ったからこそ、落ち着けなかったのだ。今も言ったように、ぼくは艱難辛苦を主に至るために、ぜびとも克服しなければならないものと考えていた。今ぼくは、主が艱難のこちら側にましますことが分かった。主は常に、今ここにましましたもう。主は、ぼくのそばに立たれて、いつも困難に立ち向かうために必要な力と励ましを与えてくださるのだ。われわれはもう主を発見されているのに、一心に主を捜し求める。事実はこうだ。もし、すでにキリストを見い出していないのならば、われわれはこうまでキリストを追い求めないだろう」
「からかってはいかん」ルッジェロは言った。「ぼくは、そういうややこしい議論が分かるほど学問がない」
「あやまるよ、ルッジェロ」アントニオは急いで言った。「君にというより、自分に言っていたんだ」
「それならいい」ルッジェロは答えた。
「では続けたまえ、できるだけ理解に努めよう」
「達成されていなければならないもののために努力しているうちに」アントニオは続けた。「自分のすでに持っていたものを忘れてしまった。ぼくは、救い主を克ち取らなければならぬ報償と考えていた。— 今ぼくは、それが価なくして与えられていたことに気がついた」
「すでに価なくして与えられていたもの?」ルッジェロは、アントニオの言わんとするところを捉えようと努力しながら
くり返した。それでもこれは彼の理解の及ぶところではなかった。
「心配そうに見たもうな、ルッジェロ」アントニオは静かにほほえんで言った。「ぼくはただ、聖パウロがすでに言っていることを言っただけだ。『御父はその御ひとり子をわれらに降したまえり。こうしてその賜物は…』そうなのだ。君、われわれはすでに…すべてを与えられているのだ」
「すべてとはなんのことだ?」ルッジェロは口の中でつぶやいた。
「キリストにおける無限の富のことだ」アントニオは答えた。「主を魂の奥に所有したてまつることにより、生命の泉の源と平安と歓喜を所有するのだ。われわれはまるで、それがわれわれの外、どこか前方にあるかのように走り続ける。これが現在にではなく、未来に生きるという誤りを犯す理由なのだ。」ぼくはいつも自分自身から出て行き、自分を失った。今ぼくは自分の中に入ることを学び、自分を見いだした。ぼくの魂の奥底に、ぼくの愛したてまつる主を見いだしたからだ」…
P303~307

福者ヨハネ・パウロ2世の命日

聖母マリアへの奉献文
 — 1984年、主のお告げの祭日に聖ペトロ大聖堂前広場で読まれたもの

1 「神の聖なる御母よ、わたしたちは、ご保護のもとにはせよります」 
 キリストの教会が、昔から唱えるこの言葉を唱えながら、わたしたちは今日、み前に参りました。 
 おお、御母よ、わたしたちの贖いの特別聖年に。 
 わたしたちは、教会のすべての牧者と、特別な契りで結ばれて一致し、1つの体、1つの司教団をつくっています。むかし、使徒たちが、キリストのみ旨に従って、ペトロといっしょに1つの体、1つの司教団をつくっていたように。 
 この一致の契りで結ばれたわたしたちは、すべてをあなたにゆだねるこの文の言葉を唱えます。
 この中に、わたしたちは、もう一度、現代世界の教会の希望と悩みとを含めようと望んでいます。 
 あなたのしもべ、教皇ピオ12世が、40年前に、それから再び十年後にもう一度、人間家族の苦しい生活を考えて、全世界、わけてもこのような状態にあえいでいる人びとのために、あなたの愛と世話の特別な対象となっているすべての国民を、汚れなきみ心にゆだねて奉献しました。
 人間と諸国民とのこの同じ世界のことを、こん日も、わたしたちは考えています。 
 それは、終わろうとしているこの2000年の世界、今の世界、わたしたちの世界です。
 「あなたたちは、行って、諸国に弟子をつくりなさい、…わたしは、世の終わりまで、常にあなたたちと共にいる」(マタイ28・19~20)という主のみことばを思い出して、教会は第2バチカン公会議において、現代における自分の使命をより明らかに意識しました。
 それで、人間と諸国民のおん母よ、あなたは、かれらのすべての苦しみと希望をご存知です。また、現代世界をゆさぶる善と悪、光と暗闇のすべての戦いを、母の心をもって感じておられます。どうぞ、わたしたちが聖霊に動かされて、直接あなたのみ心に対してなす叫びを受け入れてください。
 人間と諸国民の地上における運命と、永遠への運命を非常に憂えながら、わたしたち人間のこの世界をあなたにゆだね奉献します。どうぞ、このわたしたち人間の世界を、母として、また主のはしためとしての愛をもって抱きしめてください。 
 この委ねと奉献をとりわけ必要とする人間と諸国民を、特別にゆだねて奉献します。
「神の聖なるおん母よ、わたしたちは、ご保護のもとにはせよります。試練の中にあるわたしたちの願いを、かろんじないでください。」

2 ごらんください、キリストのおん母よ、あなたのみ前に、あなたの汚れなきみ心の前にいて、わたしたちは、教会全体と共に、わたしたちへの愛のために、御父にご自分をゆだねられた御子に、心を合わせたいと思っています。
御子は、こうおおせになりました。「わたしは、かれらを真理によって聖別するために、かれらのために自らいけにえにのぼります」(ヨハネ17・19)と。
 世界と人間のためのこの奉献のうちに、わたしたちは、あがない主と一致したいのです。 
 この奉献は、神である主のみ心のうちに赦しを得て、つぐないを果たす力をもっています。 
 この奉献の力は、すべての時代にわたり、すべての人間と、国民と、国家とをふくめています。
 この力はまた、人間の心と暗闇の霊が、その歴史の中におこすことのできる、そして、実際に現代におこしたすべての悪にうち勝ちます。
 わたしたちは、キリストご自身と一致して、人類と世界、わたしたちの今この世界のために、この奉献をする必要をどれほど深く感じていることでしょう!
 事実、キリストのあがないのみ業に、教会を通してあずからなければなりません。
 このあがないの年、教会全体のこの特別な聖年は、このことを示しています。
 [この聖年において] 最も完全に神のおぼしめしに従われた主のはしためであるあなたが、すべての被造物にまさって祝福されますように。
 御子のあがないの奉献に、全体的に一致したあなたに、わたしたちは挨拶します。
 教会のおん母よ! 神の民を信仰と希望と愛徳の道で照らしてください。
 奉献してあなたにゆだねるようにと、あなたが待っておられる、その諸国民を特別に照らしてください。現代世界の全人類の家族にかわって、キリストの奉献を真実に生きるように、わたしたちをお助けください。

3 おん母よ、わたしたちは、世界とすべての人間、すべての国民をあなたにゆだね、こうして、世界のその奉献をあなたにゆだね、母としてのみ心にまかせます。
 おお、汚れなきみ心よ!悪の脅かしにうち勝つようにお助けください。
 悪は、今の世の人々の心に容易に根をおろし、そのはかり知れない悪い結果をもって現代生活の上におおいかぶさり、未来への道をふさごうとしているようにみえます。

 飢えと戦争から、わたしたちを解放してください!
 核兵器による戦争、はかりしれない自己崩壊、各種の戦乱から、わたしたちを解放してください!
 人間の命を、その曙から脅迫する罪から、わたしたちを解放してください!
 国内また国際社会的生活上のすべての不正から、わたしたちを解放してください!
 神の掟を、たやすくふみつぶす危険から、わたしたちを解放してください!
 人間の心から、神の真理そのものをくらまそうとする傾きから、わたしたちを解放してください!
 善悪の判断をあやまる良心の迷いから、わたしたちを解放してください!
 聖霊に対する罪から、わたしたちを解放してください!
 解放してください!

 キリストの御母よ、あらゆる苦しみに圧倒されているすべての人間のこの叫びを、社会全体のこの苦しみの叫びをお聞きください。
 聖霊の力によって、すべての罪、人間の罪、また”世界の罪”その諸々の罪悪にうち勝つように助けてください。
 世界の歴史に、贖いと救いをもたらす無限の力、あわれみ深い愛の力が、ふたたび現れますように!
 その愛こそが、悪を防ぎ、良心を聖化させますように!
 あなたの汚れなきみ心の中で、すべての人のために、希望の光が示されますように。 アーメン。
                                   ヨハネ・パウロ2世
司祭のマリア運動『聖母から司祭へ』より(p1100~p1103)
写真は『POPE JOHN PAUL II  His Story for Children』より

'88・6・3

祝 聖ヨゼフの祭日

マリアの浄配 
証聖者、聖ヨゼフ 
一級大祝日 白

 神の御母聖マリアの浄配であり、神の御子イエズスの養父であった聖ヨゼフは、その生存中、謙遜なかくれた生活をおくったので、教会史においても、ながらく表面にはあらわれなかった。
 本日の祝日についての歴史がはじめてあらわれたのは、十世紀のことである。この日は、イエズスとマリアとに見おくられて去った、聖ヨゼフの光栄ある死の祝日である。
 この聖なる死のために、聖ヨゼフは、よき死をむかえる準備をする保護者とされている。十五世紀以来、聖ヨゼフに対する信心は、ますますひろまった。

(『主日のミサ典書』 ドン・ボスコ社発行 昭和39年度版より)

聖会の保護者聖ヨゼフに向う祈

祝 聖クレメンス・マリア・ホフバウアーの記念日

『樫の木の人』レデンプトール会刊(\1,400.-)より

10 マイヤー夫人と哲学者(p133~)
 雑踏と喧騒を極めたウィーンの街並も今は静まり返っている。ただマイヤー夫人の家の屋根裏部屋の小さい窓から明かりちらほらもれていた。片手にローソク、もう一方にデカルト哲学書を掲げた哲学生クレメンス・マリア・ホフバウアーが、部屋の中を行ったり来たりしている。菩提樹の枝ののぞく窓ぎわを五歩行くとつき当たり、小さな戸棚のある壁に沿っても五歩でおしまいになる下宿部屋であっった。カチカチと柱時計がかれの足並にそろえ単調な相づちを打っている。
 懐疑論者のデカルトはえんえんと続く方法論によって、物事を易しくしてくれるどころではなかった。コツコツコツ、哲学生は錯綜した頭を整理しようと懸命である。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん 十二時がなり哲学生は足を止めた。
 「もう真夜中だ。気難し屋のデカルト先生、われわれも休むとしましょう。」
独り言を言ったものの又歩き出した。五歩行って、五歩戻る、そのうちに歩調にあわせてラテン語の哲学用語をとなえ出した。
 「COGITO ERGO SUM  我思う 故に 我在り」夢中になっていたので、ドアが開き古城の幽霊かとまがう姿で下宿の女主人マイヤー夫人が、燭台を手に敷居のところに立っているのに全然気が付かなかった。
 「もしもし、ホフバウアーさん、まだお休みにならないんですか? もうとっくに十二時を過ぎましたよ。そら、その本をこちらへおよこしなさい。明日は明日の風邪が吹く。これがわたしの信条ですよ。いつもこう思って生きてるんです。」
 「はあ! おばさんは偉いんですね。」
 「どうして急にそんなことを言い出したりなさるんです。わたし、ちっとも偉くなんかありませんよ。」
 「どうしてって、今、わたしは思うって言ったでしょう?COGITO ERGO SUM  この本にその通りのことが書いてあるんです。おはさんは思う、こうしておばさんは生きていることを証明しているんです。」
 「まあ、そんなことが書いてあるんですか?何だかよく解りませんがそのばかに大きな本に書いてあるのがそれだけのことなんですか? そんなつまらない本なら、そら、そこのストーブで燃やしておしまいなさいよ。あなたがこんなにいい学生さんじゃなかったら、もっとこっぴどいやり方で生きていることを証明してあげるんだけと…」
 「きっとそうでしょうね、でも、おばさんも哲学は好きじゃなさそうだな。」
 「そんなことはまああどうでもいいことにして、ねえホフバウアーさん、明日シチューとヌードルを作るんですよ。おいしいシチューを作ってマイヤーあばさんの生きている証拠をちゃんと見せてあげますよ。」
 「そうだ、そうだ、おばさんはやっぱりすばらしい。全くおっしゃる通りですよ。もしこの気難し屋のデカルト先生が おばさんのシチューで舌鼓をうっていたとしたら、こんな七面倒な本なんか書かなかったでしょうにね。」
 「まあ、ホフバウアーさんたらなかなかお上手ね、でもあなたは本当にいい方ですよ… でも、もうベットにお入りなさい、神さまが明日の朝まで守ってくださいますように。」
 「お休みなさい。おばさんのシチュー哲学はすごくいいんだ、けれど教授たちはデカルトでないと聞いてくれない…」
ホフバウアーは横になってもなかなか寝つかれなかった。マイヤー夫人の方が正しいのではなかろうか。ウィーン大学で哲学の講義に列してもう二年になるが、自分の精神がいくらかでも明るくなったとは思えない… それどころか、心がかえって冷たくなったような気がする。マイヤー夫人の手作りの英知の方が、哲学の教授連よりすばらしいと思えることが幾度となくあった。又哲学者というものは、神の美しい創造を際限のない抽象化によって細々と切り刻み、真の概念に関しては虚勢を張ってくどくどと述べたてているのに過ぎない様な気がした。幼い頃、ほかの子が蝶の羽をちぎりとっているのを見て憤慨したことがあったが、哲学の講義を聞いていると不思議とそれが思い起こされた。神が創造されたものを見究めるには、抽象化し区々に分断してしまう必要があるのだろうか。教授たちは何事によらず物事を複雑化しようとしている。だが本当ははるかに単純なのだ…
 ホフバウアーは、神学科に進みさえすれば、もっとよくなるに違いないと自分に言い聞かせていた。
 しかしいざ進んでみると、神学科でも幻滅の悲哀を味わわされるだけであった。教授陣の中で二人だけはホフバウアーの意にかなった。この二人はのちに有能な司教となり、熱心な牧者となった人で、ホフバウアーはかれらから受けた理論を実生活に活かそうと努めた。しかし他の教授連は世におもねり、神の教えを自己流の考えで水割りした後にしか与えてくれなかった。かれら啓蒙されたカトリック者たちは、自分たちこそ教会と信仰に真に奉仕しようと努めつつ、神をすてた合理主義者たちの攻撃に当たろうとしているのだと信じていたのである。しかし、非常に敬けんで深い信仰に根ざしたクレメンス・マリア・ホフバウアーにとっては、こうした神と人の両方にへつらう日和見主義は何とも我慢できないものであった。
 ある日かれは勇を鼓して、こうした教授の一人に質問した。教授はホフバウアーの面もちのただならぬのを見、一瞬ぎくりとした様であった。
 「何しろきみ、われわれは十八世紀の世界に生きているんです。きみの知っている通り世の中は変わった… 啓蒙時代に入っているのですよ。現代人に耳を傾けさせようと思うのならかれらの言葉で話さなくてはいけない。」
クレメンスはもどかしげに口をはさんだ。
 「失礼ですが教授、神のみことばは、いつの時代にも同じではないでしょうか?今の時代こそ、聖パウロや福音のことばを必要としており、そのまま伝えられる必要があるのではないでしょうか?」
 「勿論、勿論。だがね、われわれの時代は奇跡をそのまま首肯し難くなってきている。教壇からも、説教壇からも、純人間的な理性に合致する言葉が話されるようにと期待しています。従ってわれわれも時流に乗っていかなければならない。」
 「違います、教授。時流に乗るのではなく、逆らうのです。」
ホフバウアーはもう何も恐れない。
 「教授、今こそ、堂々と神のみことばをそのまま告げるべきです。他の人びとがピアノの威勢のいい伴奏づきでやっているのに、こちらで弱々しい鼻唄をやっているのでは到底太刀打ちできません。今の時代に進むべき道を示すには、自分のランプを明々と灯さなければなりません。啓蒙主義の弱々しい、かすかにゆらめく火では役に立ちません。神の偉大で暖かいかがり火を大きく燃え上がらせるべきです。」
かれの眼はらんらんと燃え、昔の予言者さながらに教授の面前に立ちはだかっていた。…

祝 聖クレメンス・マリア・ホフバウアーの記念日

『樫の木の人』レデンプトール会刊(\1,400.-)より

23 陰謀(p358~)
 自由思想家たちは激怒に身をふるわし、ウィーンの秘密結社集会所ではクレメンス・マリア・ホフバウアーの失脚を計る陰謀が誓いの下に進められていた。
 又、聖ウルスラの指導司祭の活動を疑惑と不信の眼で見守っている司祭たちもいたことはもちろんである。かれらは大学やジェネラル・ゼミナーで啓蒙主義化されたカトリシズムを教え込まれてきたのだ。そして当然司祭として自分たちの論理的で浄化されたキリスト教を擁護する為に戦っていた。だが結局は、人々を教会から遠ざけたばかりでなく自分たちの心までも空虚で冷酷なものとしてしまい、それは理性主義に譲歩してキリストの教えを変形した為であることを認めようとはしなかった。
 これに反し、ホフバウアーはだれはばかることなくカトリックの信仰を全面的に宣べ、免償、地獄の永遠性、聖人の崇敬を説き、他の聖職者たちがウィーンの説教壇では極力触れないように気遣っているなお多くの事柄について話した。この為、厳しい非難の声が起こった。さらにホフバウアーは当時の説教者のやり方とは違って、庶民の日常用語をふんだんに使用したのもこの司祭たちの神経をいら立たせた。又かれが行う信心業、巡礼、行列などにもかれらは眉をひそめた。
 だが大学ではホフバウアーの考え方をよしとする学生がふえ、ヨゼフ主義の老教授たちに対し異議を申し立て、教室でごたごたを起こすのも珍しいことではなかった。
 ホフバウアーに最も強硬に反対する大立者は、ウィーン大学哲学部の副部長で司教座参事会員でもあるグルーパーであった。この聖ステファノ教会の参事会員はホフバウアーの影響をくい止めるあらゆる方法を探求するよう関係者に命令し、誤った熱心故にしばしば不正な手段に頼っていた。…

11 嵐 (p160~)
…マリア・ホフバウアー夫人もタスウィッツの家で床についていた。枕にもたれているその顔は青白く、多くの子供を世に送り出したこの母の命はまさに燃え尽きようとするローソクの様であった。
 きいっと戸があき、バーバラが入って来た。…
 「バーバラ、ねえ、バーバラ。」
母はささやく様に、歌う様に言った。
 「なに?お母さん?」
 「あの手紙、ねえ、バーバラ、あの手紙をもう一度読んでおくれ。」
 「だって、お母さん、今朝からもう三回も読みましたよ。どうして、しばらくでもいいから休めないの?」
 「バーバラ、ねえ、すまないけれどもう一度だけ読んでちょうだい。」
 娘は、小さな祭壇の聖母像にもたれさせてあった大きな封筒をとり上げた。その朝早く村の郵便配達夫がズノイモから運んできてくれたものである。だがずっと遠くはるかかなたのイタリアから届いたので二週間もかかり、油じみ、汚くなっていた。昔なじみの配達夫は、この汚れは自分の家のえんとつ掃除用のほうきのせいではないと幾度も断って帰って行った。…
 「ゆっくり、もう一度よんでちょうだいな、バーバラ。」
 「じゃ、お母さん、読みますよ。」
 朝から四度目の朗読が始まり、母親は一句一句娘のあとを追って繰り返す。母にとってはその一言一句が、今朝司祭が拝領させてくれた聖体と同じく甘美なものに思われた。
 「お母さん、昨日、あなたの息子は司祭になりました。今朝、初めてごミサを捧げました。カリスを持つ手はぶるぶるふるえましたし、白いホスティアが手からすべり落ちないかと心配でした。このホスティアを昨日自分で焼きました。また、ぶどう酒は、初ミサのためにお母さんがイタリアまで送ってくださったあの小さなびんのを使いました。」
 「バーバラ。」母親は口をはさむ。
 「うちのふどう園のですよ。考えてごらん、わたしの摘んだぶどうの実が御血になったんですよ!マリアさまの小さなほこらの近くにある、ほら、あの一番上等なぶどうの実ね、わたしがしぼって作ったぶどう酒が、ハンスの、いいえ、クレメンス神父の口にする一言で、キリストさまの御血になったんですよ。ねえ、おまえ、考えられないじゃないの…本当に…」
 「そう。でもお母さん、そのことみんな今朝言ったじゃないの… まあ、いいから、残りを聞いてちょうだい。」
 
「本当にお母さん、聖変化って何と美しいことでしょう。この固所にくるともう地上になどいません。高く天国にあげられています。この地上の、パンとかぶどう酒とか、ごくありきたりのものをとり、それを神ご自身の御体と御血に変化できるその時、人はもう神に属しています。もうこれから後は以前と同じではありえません! わたしの前の白い聖体布の上にホスティアが置かれ、それを手にとる時、わたしはタスウィッツの教会墓地に憩っていらっしゃるパパの事を考えました。そして聖変化の前、初めてご聖体を奉挙した時、お母さん、あなたの事を考えました。何かいつもと違っているとお感じになりませんでしたか?」
「ええ、ハンス、違ってるって感じましたよ、とてもとてもはっきり感じました。あの日以来、毎朝この感じが新たにします。ハンスは今ごミサを捧げているってね。」…

『おとめマリアのロザリオ』福者ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的書簡

教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡
『おとめマリアのロザリオ』(ROSARIUM VIRGINIS MARIAE)第三章より 12

36 ロザリオの珠
  ロザリオの珠は、ロザリオを唱えるための道具として伝統的に用いられてきました。何も考えないで用いるなら、この珠は、単に、「聖母マリアへの祈り」の数を数える道具にすぎないものになります。しかし、この珠も、象徴的な意味を持っており、観想のためのより豊かな内容を与えてくれます。
 まず第一に注目すべきなのは、ロザリオの珠が十字架へとまとめられていることです。ロザリオの祈りは十字架から始まり、十字架で終わります。信者の生活と祈りはキリストを中心として行われます。すべてはキリストから始められ、すべてはキリストへと向かいます。そして、すべてはキリストによって、聖霊のうちに、御父へと至ります。
 珠の数を数え、祈りの歩みを刻みながら、ロザリオの珠は、観想の道も、キリスト信者の完徳への道も、終わりのないものだということを示します。福者バルトロ・ロンゴはロザリオの珠を、わたしたちと神とをつなぐ「鎖」と考えました。たしかにそれは鎖ですが、甘美な鎖なのです。それが甘美なのは、わたしたちの父である神とのきずなだからです。それはわたしたちを「子とする」鎖です。なぜなら、それはわたしたちを「主のはしため」(ルカ1・38)であるマリアと一致させ、また、何よりも、神でありながら、わたしたちへの愛のために「しもべ」となられたキリストと一致させるからです(フィリピ2・7参照)。
 同時に、ロザリオの珠の象徴的な意味を、わたしたちの互いの関係にまで広げることができます。ロザリオの珠によって、わたしたちは共同体や友人のきずなを思い起こします。それらも、わたしたちみなをキリストに結びつけるのです。

*****
36 が、抜けていました。

『おとめマリアのロザリオ』福者ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的書簡


教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡
『おとめマリアのロザリオ』(ROSARIUM VIRGINIS MARIAE)第三章より 13

38 ロザリオの神秘の各曜日への配分
 ロザリオは毎日すべての神秘を唱えることができますし、そのように行っている人も少なくありません。そのようにすれば、多くの観想修道者にとって毎日は祈りに満ちたものとなり、自由にできる時間がたくさんある病気の人やお年寄りには、心の慰めとなるでしょう。しかし、ロザリオの神秘に光の神秘が付け加えられればなおさらですが、多くの人にとっては、ロザリオの神秘の一部を曜日に従って唱える以上のことができないことは明らかです。この曜日ごとの神秘の配分は、週の各曜日をいわば「色」分けすることになります。それは、典礼で、典礼暦年のそれぞれの季節が色分けされているのに似ています。
 最近の習慣では、月曜日と木曜日には「喜びの神秘」を、火曜日と金曜日に「苦しみの神秘」を、水曜日・土曜日・日曜日に「栄えの神秘」を割り当てています。では「光の神秘」はどこに入れたらよいでしょうか。「栄えの神秘」が土曜日にも日曜日にも唱えられ、土曜日は伝統的にとくにマリアの曜日とされてきたことを考えるなら、マリアの存在がとくに強調されている「喜びの神秘」を唱える二番目の曜日を土曜日に移すことができるのでないかと思います。すると、木曜日に「光の神秘」を黙想できるようになります。
 この指示は個人または共同体の祈りにおける自由を制限することを意図するものではありません。霊的・司牧的な必要性と、何より、この指示を適用するのにふさわしい典礼の場であるかどうかをよく考慮することが必要です。いちばん重要なのは、ロザリオをつねに観想の道として考え、また実践すべきだということです。典礼において行われているのと同じように、ロザリオにおいても、復活の日である日曜日を中心としたキリスト者の一週間は、キリストの生涯の秘義を歩む旅となります。キリストは彼に従う弟子の生涯の中で、時間と歴史の主として自らを現されるのです。

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