祝 聖クレメンス・マリア・ホフバウアーの記念日

『樫の木の人』レデンプトール会刊(\1,400.-)より

10 マイヤー夫人と哲学者(p133~)
 雑踏と喧騒を極めたウィーンの街並も今は静まり返っている。ただマイヤー夫人の家の屋根裏部屋の小さい窓から明かりちらほらもれていた。片手にローソク、もう一方にデカルト哲学書を掲げた哲学生クレメンス・マリア・ホフバウアーが、部屋の中を行ったり来たりしている。菩提樹の枝ののぞく窓ぎわを五歩行くとつき当たり、小さな戸棚のある壁に沿っても五歩でおしまいになる下宿部屋であっった。カチカチと柱時計がかれの足並にそろえ単調な相づちを打っている。
 懐疑論者のデカルトはえんえんと続く方法論によって、物事を易しくしてくれるどころではなかった。コツコツコツ、哲学生は錯綜した頭を整理しようと懸命である。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん 十二時がなり哲学生は足を止めた。
 「もう真夜中だ。気難し屋のデカルト先生、われわれも休むとしましょう。」
独り言を言ったものの又歩き出した。五歩行って、五歩戻る、そのうちに歩調にあわせてラテン語の哲学用語をとなえ出した。
 「COGITO ERGO SUM  我思う 故に 我在り」夢中になっていたので、ドアが開き古城の幽霊かとまがう姿で下宿の女主人マイヤー夫人が、燭台を手に敷居のところに立っているのに全然気が付かなかった。
 「もしもし、ホフバウアーさん、まだお休みにならないんですか? もうとっくに十二時を過ぎましたよ。そら、その本をこちらへおよこしなさい。明日は明日の風邪が吹く。これがわたしの信条ですよ。いつもこう思って生きてるんです。」
 「はあ! おばさんは偉いんですね。」
 「どうして急にそんなことを言い出したりなさるんです。わたし、ちっとも偉くなんかありませんよ。」
 「どうしてって、今、わたしは思うって言ったでしょう?COGITO ERGO SUM  この本にその通りのことが書いてあるんです。おはさんは思う、こうしておばさんは生きていることを証明しているんです。」
 「まあ、そんなことが書いてあるんですか?何だかよく解りませんがそのばかに大きな本に書いてあるのがそれだけのことなんですか? そんなつまらない本なら、そら、そこのストーブで燃やしておしまいなさいよ。あなたがこんなにいい学生さんじゃなかったら、もっとこっぴどいやり方で生きていることを証明してあげるんだけと…」
 「きっとそうでしょうね、でも、おばさんも哲学は好きじゃなさそうだな。」
 「そんなことはまああどうでもいいことにして、ねえホフバウアーさん、明日シチューとヌードルを作るんですよ。おいしいシチューを作ってマイヤーあばさんの生きている証拠をちゃんと見せてあげますよ。」
 「そうだ、そうだ、おばさんはやっぱりすばらしい。全くおっしゃる通りですよ。もしこの気難し屋のデカルト先生が おばさんのシチューで舌鼓をうっていたとしたら、こんな七面倒な本なんか書かなかったでしょうにね。」
 「まあ、ホフバウアーさんたらなかなかお上手ね、でもあなたは本当にいい方ですよ… でも、もうベットにお入りなさい、神さまが明日の朝まで守ってくださいますように。」
 「お休みなさい。おばさんのシチュー哲学はすごくいいんだ、けれど教授たちはデカルトでないと聞いてくれない…」
ホフバウアーは横になってもなかなか寝つかれなかった。マイヤー夫人の方が正しいのではなかろうか。ウィーン大学で哲学の講義に列してもう二年になるが、自分の精神がいくらかでも明るくなったとは思えない… それどころか、心がかえって冷たくなったような気がする。マイヤー夫人の手作りの英知の方が、哲学の教授連よりすばらしいと思えることが幾度となくあった。又哲学者というものは、神の美しい創造を際限のない抽象化によって細々と切り刻み、真の概念に関しては虚勢を張ってくどくどと述べたてているのに過ぎない様な気がした。幼い頃、ほかの子が蝶の羽をちぎりとっているのを見て憤慨したことがあったが、哲学の講義を聞いていると不思議とそれが思い起こされた。神が創造されたものを見究めるには、抽象化し区々に分断してしまう必要があるのだろうか。教授たちは何事によらず物事を複雑化しようとしている。だが本当ははるかに単純なのだ…
 ホフバウアーは、神学科に進みさえすれば、もっとよくなるに違いないと自分に言い聞かせていた。
 しかしいざ進んでみると、神学科でも幻滅の悲哀を味わわされるだけであった。教授陣の中で二人だけはホフバウアーの意にかなった。この二人はのちに有能な司教となり、熱心な牧者となった人で、ホフバウアーはかれらから受けた理論を実生活に活かそうと努めた。しかし他の教授連は世におもねり、神の教えを自己流の考えで水割りした後にしか与えてくれなかった。かれら啓蒙されたカトリック者たちは、自分たちこそ教会と信仰に真に奉仕しようと努めつつ、神をすてた合理主義者たちの攻撃に当たろうとしているのだと信じていたのである。しかし、非常に敬けんで深い信仰に根ざしたクレメンス・マリア・ホフバウアーにとっては、こうした神と人の両方にへつらう日和見主義は何とも我慢できないものであった。
 ある日かれは勇を鼓して、こうした教授の一人に質問した。教授はホフバウアーの面もちのただならぬのを見、一瞬ぎくりとした様であった。
 「何しろきみ、われわれは十八世紀の世界に生きているんです。きみの知っている通り世の中は変わった… 啓蒙時代に入っているのですよ。現代人に耳を傾けさせようと思うのならかれらの言葉で話さなくてはいけない。」
クレメンスはもどかしげに口をはさんだ。
 「失礼ですが教授、神のみことばは、いつの時代にも同じではないでしょうか?今の時代こそ、聖パウロや福音のことばを必要としており、そのまま伝えられる必要があるのではないでしょうか?」
 「勿論、勿論。だがね、われわれの時代は奇跡をそのまま首肯し難くなってきている。教壇からも、説教壇からも、純人間的な理性に合致する言葉が話されるようにと期待しています。従ってわれわれも時流に乗っていかなければならない。」
 「違います、教授。時流に乗るのではなく、逆らうのです。」
ホフバウアーはもう何も恐れない。
 「教授、今こそ、堂々と神のみことばをそのまま告げるべきです。他の人びとがピアノの威勢のいい伴奏づきでやっているのに、こちらで弱々しい鼻唄をやっているのでは到底太刀打ちできません。今の時代に進むべき道を示すには、自分のランプを明々と灯さなければなりません。啓蒙主義の弱々しい、かすかにゆらめく火では役に立ちません。神の偉大で暖かいかがり火を大きく燃え上がらせるべきです。」
かれの眼はらんらんと燃え、昔の予言者さながらに教授の面前に立ちはだかっていた。…