シャルル・ド・フコー著『霊のあふれの手記』 沢田和夫神父訳より(サン パウロ発行)

静まった嵐
[キリスト]《子らよ、どんなことが起こっても、私がいつもいっしょにいるということを、忘れずに思い出しなさい…。見える仕方でも、見えない仕方でも、あるときには働きかけているようであり、またあるときには眠ってみなのことを忘れているように見えることがあっても、私はいつも目覚めていて、どこにでもいること、そして私は、全能であるということを思い出しなさい。決して何も恐れないこと、一切の不満を無くすこと。というのも、私がそこにいて見張っている。私はあなたたちみなを愛していて、ほんとうに大事に思っているのだから(今後、もう一切私の愛を疑ったりはしないだろうね!)私は全能である…。これ以上の何がまだ必要だというのだろうか…?何が起きてこようと、それは私の許し、私の意志によって起こるのであり、すべて私の愛の意志、愛の許しによって起こることなのである。そしてそこから、あなたたちが一層の益を引き出せるようにと、私は恵みをもって助けるのである…。だから、何も恐れてはいけない。何も私の許しないに起きることはないのだから…。なんについても悲しんではならない。一時の本能的な感受性、とっさに起こって過ぎ去っていくこれらの心の動きから、人間自然の感覚の結果、悲しみや恐れの気持ちが生じるとしても、それ以上苦しんだり、嘆いたりしないようにしなさい。かえって、あなたたちの意志を、私の意志に合わせるようになさい…。
私が一言で嵐を静めたことを思い起こしなさい。嵐は一変して大なぎとなったのだった…。私が水の上を歩いたペトロを支えたことを思い出しなさい…。その時と同じように、いつでも私はひとりひとりのそばにいて、手助けする用意をし、その人の魂のためになることには力を貸そうとしているのである。それゆえ、信頼の心、信仰と勇気を持ちなさい。自分の身体と魂のことについて心配しないようにしなさい。私はそこにいて、全能であり、しかもあなたをほんとうに大事に思っているのだから。ともかく、私がそばにいることを忘れないようにしなさい…。だが、あなたたちの信頼は、危険に対しても頓着しない呑気さや不注意、無知などから出る信頼であってはならない。あるいは、自負心や他の被造物に対する信頼をもとにしているものであってもいけない。あなたたちは重大な状況に置かれているのである。時はもうない。あなたたちには、時はもう数年あるいは数日しか残されていない。それをもって永遠の幸せを勝ち取るか、それとも永遠の火に価することになる…、直面する危険は迫っている。悪魔は強い策謀にたけたものである。人間の性(さが)と世間は、絶えず戦いを挑みかけてくる。自分に信頼をおこうとしても、自分は当てになるものではない。心の中で自分の罪、自分の過ごしてきた年月を思い返してごらん。そうすれば、自分の徳、自分の精神、自分を作っているすべてが、どれほど当てにならないものであるかが、心底わかるはずである。他人については、自分以上にもっと当てにすることはできない。人は、あなたに代わって行動することはできないし、またあなたが嫌だというのに無理に救ってくれることもできない。私なしには、彼らはだれも、あなたたちと同じく無力なのである…。ああ、人の一生はその間、嵐が不断に続くものである。そして小舟はいつも沈没にひんしている…。だが私は、そこにいる。だから、私といっしょなら小舟は揺らぐことがない。すべてについて何も当てにしないように、特に自分を当てにしないよう、ただ、私に対し完全な信頼を持ちなさい。それこそ、あらゆる不安を追い払う…。》

砂漠の隠遁修道司祭 福者シャルル・ド・フコー

祝 日本26聖人殉教者の祝日 

日本二十六聖殉教者の信仰を求むる祈
主イエズス・キリスト、
主は十字架の刑によりて、聖ペトロ・バプチスタ、聖パウロ三木、
およびその他の殉教者をして、
主の御鑑(おんかが)みにならわしめ、
日本国民の信仰の初穂として、かれらの鮮血を納め給えり。
願わくは、二十六聖殉教者の御取次(おんとりつぎ)によりて、
堅固なる信仰と迫害に堪うる勇気とをわれらに得しめ給え。アーメン

(公教会祈祷文 カトリック中央協議会編 中央出版社発行 昭和34年度版)

祝 聖ヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)の記念


『天の母の警告』デルコル神父著 世のひかり社刊より
ドン・ボスコの夢

 
二本の柱(1862)
 1862年のいわゆる二本の柱の夢というものがあります。 
その予言的な夢では、教会を示す教皇の指令艦と、これに従う他の船(教皇に従う司教たちの船)が大変な嵐にあい、そのうえ、敵の艦隊に攻撃されていました。この攻撃が政治的なものでなく、精神的なものであるというしるしに、その武器として使われているのは、主として、各種の書物と印刷物でした。つまり、この攻撃は、思想上の攻撃であることが示されているのです。夢では、教皇がうち死にして、次の教皇が選ばれ、戦いがつづきます。そのうち2本の柱が見えはじめましたが、一本の柱の上には、無原罪のおんやどりの聖母のご像があって、その下に、「キリスト信者の助け」と書かれていました。もう一本の柱は、これよりも、ずっと大きく、高くそびえていて、柱の上に大きなホスティアがあり、その下に、「信じる者の救い」と書かれています。
 この二本の柱をあおぎ見た教皇は、指令艦をその柱の間に導き入れ、両方の柱から出ている鎖で、自分の船を安定させました。これに他の司教たちの小さな船もならったのです。すると、たちまち大混乱が起き、それまで教皇の艦隊に戦いをいどんでいた敵の船が互いに、ぶっつかり合いはじめました。こうして、敵の船は、沈没し、そのあとには、大なぎの静けさだけがありました。これは、教会をその危機から救うものは、ご聖体と聖母信心であるというしるしなのです。

ドン・ボスコの二つの予言
ドン・ボスコの伝記には、この大天災に関係のあと二つの予言があります。この予言は夢でなく、まぼろしのなかで受けたものです。
 この予言では、まもなく実現されるはずの事件と、ずっと後に実現されるであろう「天的一大災難」と、これにつぐ「教会の凱旋」が示されています。 もちろん予言ですから、それも百年も前の、しかもまぼろしの中でシンボル的に表現されたものですから、わたしたちの望む正確さはありません。神秘的なベールに包まれているといわねばなりません。いくぶん旧約聖書にみられる形式を感じさせられます。
 予言の一つは、1870年のご公現の祝日(1月6日)に関係があります。この日は、第一次バティカン公会議の第2の議会が行われた日にあたり、教皇を先頭に教父たち(司教たち)は、荘厳な信仰宣言をしました。聖ドン・ボスコが、予言のまぼろしをみたのは、ちょうどその前日で、それは、これをすぐ文書にしたため、1月12日に教皇に渡しました。
 それは、「神だけがすべてでき、すべてを知り、そして、すべてをみとおされる」という言葉ではじまり、いくつもの部分に分けられています。
 第一の部分にみられる予言は、フランスについてであります。神のおきてをすてたフランスにまもなく起こる天罰がのべられ、これは、すぐに実現されました。
 次の部分は、公会議教皇ピオ9世に対するメッセージで、ここには、教会が出会うはずの困難と反対、そして、聖母の特別なご保護の約束があります。
 三番目は、祝福の地イタリアについての予言です。ここにも、信仰をすて、祝福に答えなくなったために、ふりかかる種々の天罰が予言されています。そのいくつかは、すでに教皇ピオ9世の時に実現され、そののちにも実現されました。
 最後の部分にあるのが、「激しい嵐」の予言です。
 とくに目をひくのは、「花の月(5月)の二つの満月が終わらないうちに、ふたたび地上に平和がもどり、教会の上に偉大な勝利がかがやく」という予言です。この勝利は、聖霊降臨以来かつてなかったほどの教会の発展であることが示されています。
 以上の予言は、第一の予言と呼ばれているものですが、1873年の第二の予言はすべて、最後の一大災難を述べています。

 これは、「暗い夜であった」ということばではじまっています。
 これによれば、教皇は、「突然生じてくる激しい嵐のために、ローマを逃げ出さねばならなくなります。この嵐で、夥しい(おびただしい)人が死にます。そのとき、ふたりの天使が、旗を手にして近づくのが見え、天使は、その旗を教皇に渡しながらいいました、”世界で一番強い軍勢をもって攻撃してきても、かならずこれを追いはらうお方の旗を受けよ。あなたの敵は、もうなくなった。あなたの子らは、涙にぬれ、ため息と共にあなたの帰りを願っている”」と。
 原文では、この「お方」ということばが女性代名詞になっていて、マリアのことを指しています。それは、まぼろしの中にみたあのふたりの天使の持ってきた旗が、一つに「けがれなく宿られたきさき」、もう一つに、「キリスト信者の助け」と書かれていたことからでもわかりました。そのまぼろしの中で、教皇は、よろこんでその旗をうけとりましたが、自分のまわりに残っている人があまりにも少ないのを見て、悲しむのです。すると、あのふたりの天使はいいました、「全世界の人々にくいあらためを呼びかけ、子どもたちに教理を教えるように全力をつくしなさい」と。
教皇がローマに帰ってみると、その人口の大部分は地上から消えていました。教皇は、そのことを悲しみますが、聖ペトロ大聖堂に入ってゆきました。大災難が終わったことを感謝するためです。やがて、教皇がテ・デウム(感謝の賛美歌)をうたいはじめたとき、かってのベトレへムと同じことが起きたのです。大勢の天使たちが、うたいはじめて、「もっとも高いところに神に栄光、地には善意の人々に平和」というのが聞こえました。
 この予言のまぼろしを見てまもなく、ドン・ボスコはこういっています、
「教会の勝利は確実です。もしわたしたちが地上でこれに参加できないとすれば、天国から参加するでしょう」と(大伝第10巻59-68ページ)。
*デルコル神父著「天の声」、ドン・ボスコ社、1949(昭和24)年発行、70-94ページに、この二つの予言の本文とその注解が紹介されています。
 聖人のこのことばで、この大天災が、あの時代において、すぐに起きるのでなく、ずっと後に起きることがわかります。

祝 聖トマス・アクィナス司祭教会博士の記念

1. PANGE LINGUA ♫
  ♬ パンジェ・リングワ  ラテン語でうたうとき、カトリック聖歌集 #521。

1.  いざ歌え、わが舌よ、               Pange, lingua, gloriosi
  光栄ある主のおん体と               Corporis mysterium,
  尊いおん血の奥義を。               Sanguinisque pretiosi,
  祝福されたおん母のみ子、             quem in mundi pretium
  万民の王が世の救いのために、           fructus ventris generosi
  おん血を流してくださいました。          Rex effudit Gentium.

2. 汚れなきおとめから生まれて、           Nobis datus, nobis natus
  わたしたちのために与えられた主は、        ex intacta Virgine,
  この世に住まわれ、                et in mundo conversatus,
  みことばの種をまき、               sparso verbi semine,
  地上でのご生活を                 sui moras incolatus
  みごとに完成されました。             miro clausit ordine.

3. 最後のばんさんの夜に、              In supremae nocte coenae
  兄弟たちと共に食卓につき、            recumbens cum fratribus
  律法のおきてに従って、              observata lege plene
  すぎこしを食べ、                 cibis in legalibus,
  ご自身をおん手ずから、かてとして、        cibum turbae duodenae
  12人の弟子に与えられました。            se dat suis manibus. 

4. 肉となられたみことばは、ひとことばで       Verbum caro, panem verum
  まことのパンをご自分の肉に、           verbo carnem efficit:
  ぶどう酒をキリストのおん血となさいます。     fitque sanguis Christi merum, 
  五官はこれを悟り得なくても、           et si sensus deficit,
  純粋な心を堅く信じさせるために、         ad firmandum cor sincerum
  信仰だけで十分です。               sola fides sufficit.

以下ラテン語でうたうとき、カトリック聖歌集 #561-568
   タントゥム・エルゴ。 ♫ Tantum ergo

5.  これほど偉大な秘跡を               Tantum ergo Sacramentum
  ひれ伏して拝みましょう。             veneremur cernui:
  いにしえの祭りが、                et antiquum documentum
  新しい祭式に変わりますように。          novo cedat ritui:
  信仰が五官の不足を                praestet fides supplementum
  おぎないますように。               sensuum defectui.  

6.  おん父とおん子に                 Genitori, Genitoque
  讃美とほまれ、                  laus et jubilatio,
  ともに栄えと名誉と力と              salus, honor, virtus quoque
  祝福がありますように。              sit et benedictio:
  父と子から出る聖霊も               Procedenti ab utroque
  同じようにほめたたえられますように。 アーメン。 compar sit laudatio.  Amen. Alleluja.

『礼拝の聖時間』マテオ神父著「夜の聖時間」デルコル神父・江藤きみえ共訳より

1. PANGE LINGUA パンジェ・リングワ
 この賛美歌と次の二つの賛美歌は、聖トマス・アクィナスの作である。教皇ウルバノ4世にたのまれて作られたものである。教皇は、福者ユリアナ・ド・モンコルニョンのはげましを受け入れ、1262年のボルセナ市での聖体の大奇跡をみて、ご聖体の特別な祭日を制定することをきめ、当時オルビエト市に神学を教えていた聖トマス・アクィナスに新しい典礼文を依頼した。聖トマスはこの典礼文(ミサの典礼文と教会の祈りの典礼文)をみごとに作り、1264年6月19日の聖体の祭日に初めて使用された。当日聖トマス自身ミサでの説教を教皇の前でしたのである。
 この典礼文は、すばらしいものだと評価され、とくに賛美歌は詩的にすぐれていて、ご聖体の神秘をみごとにあらわしている。
 この3つの賛美歌は、ご聖体の制定とその本質を歌い、「ご聖体の中に主キリストご自身が現存し、ささげられ、拝領される」という教会の教えを明らかにしている。
 第1の賛美歌では、ご聖体におけるキリストの現存は歌われている。この現存こそ、ご聖体の土台である。ご聖体によって、人となられた救い主キリストは、世のおわりまで教会の中に残るのである。この現存は聖変化によって実現する(第四節)が、このために特別に礼拝すべきである。この理由で、この賛美歌の最後の2節は、聖体賛美式のときに歌われるのである。この賛美歌は、ご聖体の祭日の教会の祈りの晩歌で歌われる。

PANGE LINGUA GULORIOSI

〔第1節〕 最初のことば(パンジェ・リングワ、「いざ歌え、わが舌よ」)は、同じことばで始まる5世紀にさかのぼるもう一つの賛美歌—キリストの勝利をうたう賛美歌—からヒントを取って、ご聖体こそキリストの勝利を歌うものだというテーマをあらわしている。
「光栄ある」。主のおん体は、ご聖体の中に形態のもとにかくれているが、天国に光栄ある同じおん体である。
「奥義」。キリストのおん体とおん血は見えないが、実際に両形態のもとに現存しているから、まことの奥義、まことの神秘である。
「祝福された」。キリストのおん母のこと。それと同時に、「あなたのみ子も祝福された方です」(ルカ1・42)という聖エリザベットのことばを思いだしている。
〔第2節〕 「汚れなきおとめから」、予言者イザヤ(9・6)が予言したように、「神はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネ3・16)。
「この世に住まわれ」。バルク予言者のことばのとおり、キリストに当る「知恵は、地にあらわれ、人のなかに住まいをおいた」(3・38)。
「みごとに完成されました」。最後の晩さんのときに制定されたご聖体は、キリストの最大の奇跡である。
〔第3節〕 「兄弟たち」、使徒たちのこと。イエズスは使徒たちのことを「兄弟」と呼んでおられる(マタイ28・10。ヨハネ20・17)。
「律法のおきて…」。イエズスは、まずモイゼの律法に従って過ぎこしの晩さんをおこない、そのおわりにご聖体を制定された。
〔第4節〕 教義的に正確な節。聖変化をあきらかにあらわしている。
「肉となられたみことば」。「みことばは肉体となった」(ヨハネ1・14)。
「ひとことばで」、全能のそのみことばで。
「五官」。五官には、ただのパンとぶどう酒しか見えない。第五節の最後の句に同じことが強調される。
「信仰だけ」。ご聖体の秘跡は信仰の偉大な秘跡である。次の節にも同じことが強調される。聖アウグスティヌスがいうとおり、信仰とは、神のあやまりえないみことばにもとずいて、見えないことを信じることである。こうすれば、もっと大きな功徳になる、主がいわれたように「わたしを見ないで信じる人は幸いである」(ヨハネ20・29)。
〔第5節〕 結論としてすべきことを歌う。つまり、この偉大な秘跡を”ひれ伏して拝む”こと。旧約時代のいけにえや儀式は、新約時代のいけにえ(ご聖体)の前じるしに過ぎなかったので、まことのいけにえが実現すると、“いけにえの祭り”が新しい祭式(ミサ聖祭)に変わるのは当然である。
〔第6節〕 「おん父とおん子に」、中世紀の聖ヴィクトルのアダムスが作った作文から取った一句。これによってご聖体に対する信仰は、ずっと古い時代にさかのぼることを示す。三位一体に対する荘厳な賛美。

祝 聖トマス・アクィナス司祭教会博士の記念

『礼拝の聖時間』マテオ神父著「夜の聖時間」デルコル神父・江藤きみえ共訳より
   2. SACRIS SOLLEMNIIS ♪ サクリス・ソレムニイス

1.  聖なる祭りを喜んで祝い、
  まごころから賛美の歌をささげましょう。
  古いものをすべて、ぬぎすてよう、
  心も声も行いも。
                    
2.  これこそ、最後の晩さんの記念、                
  キリストは、古代の先祖に与えられた             
  正しい律法に従って、小羊とたねなしパンを          
  兄弟たちに与えたと、わたしたちは信じます。               

3.  前じるしだった小羊のあと、食事の終わりに          
  主は、おん手ずから、おん体を弟子たちにお与えになりました。  
  弟子たちはみな、完全なおん体を受け、各個人も、        
  同じ完全なおん体を受けました。                

4.  主は、弱い者におん体をかてとして与え、            
  悲しむ者におん血のさかずきを与えて、              
  おおせになります、「このさかずきを受けて、みな飲みなさい」と。 

5.  こうして主は、いけにえを定め、               
  その役目を司祭たちにおまかせになりました。         
  司祭は、自分もこれをいただいて、                
  ほかの人にも与えるつとめを持っています。           

以下ラテン語でうたうとき、カトリック聖歌集 527と528。 パニスアンジェリクス ♬ Panis angelicus

6.  天使のパンは、人間のパンとなり、           Panis angelicus fit panis hominum; 
  天のパンは前じるしを終わらせます。          dat panis caelicus figuris terminum;
  何と感嘆すべきこと! 貧しく             O res mirabilis: manducat Dominum
  いやしいしもべは、主を拝領します。          pauper, servus et humilis.

7.  三位一体の神よ、願わくは、             Te, trina Deitas unaque, poscimus:
  わたしたちの礼拝に答えておいでください。       sic nos tu visita,
  あなたの道をたどって、目的の天に           sicut te colimus; per tuas semitas
  導かれますように、                  duc nos quo tendimus,
  あなたが住んでおられるその光へ。 アーメン。     ad lucem quam inhabitas. Amen.

SACRIS SOLLEMNIIS

この第2の賛美歌は、教会の祈りの読書(Matutunum)のためであって、いけにえとしてのご聖体をほめたたえる。詩の作りかたとして、聖トマスは、奇妙な方法に従い、特別に荘厳な詩情をあらわしている。
〔第1節〕 使徒パウロの教えに従って、「前の生活の古い人を脱ぎすて、霊的な思いによって自分を新たにし、正義とまことの聖徳において、神にかたどってつくられた新しい人を着なければならない」(4・22~24)。
〔第2節〕 最後の晩さんのときに、律法に従ってイエズスは、種なしパンを使われた。それは、先祖がエジプトを出るとき、いそいでそうしなければならなかったことを記念するために。エジプトを出るとき食べられた小羊は、イエズスの前じるしだった。
〔第3節〕 前じるしの小羊を食べてのち、まことの小羊であるイエズスがご聖体を制定される。
〔第4節〕 ご聖体は弱いもの、悲しむものに、信仰の力強さと慰めを与える。
〔第5節〕 新約時代のいけにえ、ミサ聖祭は、すべての信者が参加するが、これをささげる資格があるのは司祭だけである。ほかの人は自分でご聖体を取ることはゆるされていないで、司祭の手から受けるのである。
〔第6節〕 詩編78・24に「(主は)天のパンを与えられた」とある。「天使のパン」ともいわれる。「天のパン」、または「天使のパン」とは、イスラエル人があれので食べたマンナのことである。それはご聖体の前じるしだったので、本物の天のパンが与えられると、前じるしはなくなる。イエズスは、あきらかに「天からくだった、生きるパンはわたしであって、このパンを食べる人は、永遠に生きる。そしてわたしの与えるパンは、世のいのちのためにわたされるわたしの肉である」(ヨハネ6・50~51)。
「何と…」。3つの単語で深い意味をあらわしている。
〔第7節〕 三位一体に対する賛美とともに、天にたどりつく恵みを願っている。
「住んでおられる光」、神は「近づけない光のうちに住んでおられる」(第一ティモテオ6・16)。

1. Sacris solemniis
iuncta sint gaudia,
et ex praecordiis
sonent praeconia;
recedant vetera,
nova sint omnia,
corda, voces, et opera.

2. Noctis recolitur
cena novissima,
qua Christus creditur
agnum et azyma
dedisse fratribus,
iuxta legitima
priscis indulta patribus.

3. Post agnum typicum,
expletis epulis,
Corpus Dominicum
datum discipulis,
sic totum omnibus,
quod totum singulis,
eius fatemur manibus.

4. Dedit fragilibus
corporis ferculum,
dedit et tristibus
sanguinis poculum,
dicens: Accipite
quod trado vasculum;
omnes ex eo bibite.

5. Sic sacrificium
istud instituit,
cuius officium
committi voluit
solis presbyteris,
quibus sic congruit,
ut sumant, et dent ceteris.

祝 聖トマス・アクィナス司祭教会博士の記念

『礼拝の聖時間』 マテオ神父著『夜の聖時間』デルコル神父・江藤きみえ共同訳(世のひかり社刊)より
    3.  VERBUM SUPERNUM ♫ ヴェルブム・スペルヌム

1. 天のみことばは、人となられた、
  おん父の右を離れず、
  救いのみわざを行うためにくだって、
  ご生涯のおわりを迎えました。
  
2. ひとりの弟子から敵の手に
  死に渡されるその前に、
  ご自分を弟子たちに
  いのちのかてとして与えました。

3. 二つの形態のもとに
  おん体とおん血を与えられました。
  霊魂と肉体からなる人間を、
  完全にやしなうためです。

4. 主は生まれて、わたしたちの友となり、
  食事のときに、かてとしてご自分を与え、
  死なれたとき、わたしたちをあがない、
  天において王となり、わたしたちに報いを与えます。

以下 ラテン語でうたうとき、カトリック聖歌集 524と525。オ・サルタリス ♬ O salutaris

5. 天の門を開く                  O salutaris hostia,
  救いのいけにえよ、               Quæ cæli pandis ostium,
  仇の戦いにせめられるわたしたちに、       Bella premunt hostilia;
  力をさずけ、おん助けをお与えください。     Da robur, fer auxilium.

6. 三位一体の主に                 Uni trinoque Domino
  永遠のみ栄えがありますように。         Sit sempiterna gloria:
  天のふるさとで、わたしたちに          Qui vitam sine termino
  終わりない命をお与えください。 アーメン。   Nobis donet in patria. Amen.

VERBUM SUPERNUM

この第3の賛美歌をもって聖トマスは、秘跡としてのご聖体をほめたたえる。教会の祈りの賛課のときに使う。
〔第1節〕「ご生涯のおわり」。イエズスがご聖体の秘跡を定められたのは、ご死去の前であった。
〔第2節〕 「ひとりの弟子」、うらぎりのユダ。
〔第3節〕 「二つの形態」。霊魂と肉体から成る人間をやしなうために。
〔第4節〕 典礼聖歌の最も美しい一節の一つ。神のおんひとり子は人間として生まれて、わたしたちの「友」となり、聖体拝領をもって霊魂の「かて」となり、十字架上のいけにえによってわたしたちを「あがない」、天の栄光のうちにわたしたちの「報い」となられる。
〔第5節〕 愛と祈りのりっぱな歌。この一節も聖体賛美式のときによく歌われる。
   
1. Verbum supernum prodiens,
Nec Patris linquens dexteram,
Ad opus suum exiens,
Venit ad vitæ vesperam.

2. In mortem a discipulo
Suis tradendus æmulis,
Prius in vitæ ferculo
Se tradidit discipulis.

3. Quibus sub bina specie
Carnem dedit et sanguinem;
Ut duplicis substantiæ
Totum cibaret hominem.

4. Se nascens dedit socium,
Convescens in edulium,
Se moriens in pretium,
Se regnans dat in præmium.