シャルル・ド・フコー著『霊のあふれの手記』 沢田和夫神父訳より(サン パウロ発行)

静まった嵐
[キリスト]《子らよ、どんなことが起こっても、私がいつもいっしょにいるということを、忘れずに思い出しなさい…。見える仕方でも、見えない仕方でも、あるときには働きかけているようであり、またあるときには眠ってみなのことを忘れているように見えることがあっても、私はいつも目覚めていて、どこにでもいること、そして私は、全能であるということを思い出しなさい。決して何も恐れないこと、一切の不満を無くすこと。というのも、私がそこにいて見張っている。私はあなたたちみなを愛していて、ほんとうに大事に思っているのだから(今後、もう一切私の愛を疑ったりはしないだろうね!)私は全能である…。これ以上の何がまだ必要だというのだろうか…?何が起きてこようと、それは私の許し、私の意志によって起こるのであり、すべて私の愛の意志、愛の許しによって起こることなのである。そしてそこから、あなたたちが一層の益を引き出せるようにと、私は恵みをもって助けるのである…。だから、何も恐れてはいけない。何も私の許しないに起きることはないのだから…。なんについても悲しんではならない。一時の本能的な感受性、とっさに起こって過ぎ去っていくこれらの心の動きから、人間自然の感覚の結果、悲しみや恐れの気持ちが生じるとしても、それ以上苦しんだり、嘆いたりしないようにしなさい。かえって、あなたたちの意志を、私の意志に合わせるようになさい…。
私が一言で嵐を静めたことを思い起こしなさい。嵐は一変して大なぎとなったのだった…。私が水の上を歩いたペトロを支えたことを思い出しなさい…。その時と同じように、いつでも私はひとりひとりのそばにいて、手助けする用意をし、その人の魂のためになることには力を貸そうとしているのである。それゆえ、信頼の心、信仰と勇気を持ちなさい。自分の身体と魂のことについて心配しないようにしなさい。私はそこにいて、全能であり、しかもあなたをほんとうに大事に思っているのだから。ともかく、私がそばにいることを忘れないようにしなさい…。だが、あなたたちの信頼は、危険に対しても頓着しない呑気さや不注意、無知などから出る信頼であってはならない。あるいは、自負心や他の被造物に対する信頼をもとにしているものであってもいけない。あなたたちは重大な状況に置かれているのである。時はもうない。あなたたちには、時はもう数年あるいは数日しか残されていない。それをもって永遠の幸せを勝ち取るか、それとも永遠の火に価することになる…、直面する危険は迫っている。悪魔は強い策謀にたけたものである。人間の性(さが)と世間は、絶えず戦いを挑みかけてくる。自分に信頼をおこうとしても、自分は当てになるものではない。心の中で自分の罪、自分の過ごしてきた年月を思い返してごらん。そうすれば、自分の徳、自分の精神、自分を作っているすべてが、どれほど当てにならないものであるかが、心底わかるはずである。他人については、自分以上にもっと当てにすることはできない。人は、あなたに代わって行動することはできないし、またあなたが嫌だというのに無理に救ってくれることもできない。私なしには、彼らはだれも、あなたたちと同じく無力なのである…。ああ、人の一生はその間、嵐が不断に続くものである。そして小舟はいつも沈没にひんしている…。だが私は、そこにいる。だから、私といっしょなら小舟は揺らぐことがない。すべてについて何も当てにしないように、特に自分を当てにしないよう、ただ、私に対し完全な信頼を持ちなさい。それこそ、あらゆる不安を追い払う…。》

砂漠の隠遁修道司祭 福者シャルル・ド・フコー