十字架の道行き 第三留

第三留 イエズス始めて倒れ給う 『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

   

 ああキリストよ、主は尊き十字架をもつて世をあがない給いしにより、
 ▲われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。

 主はすでにむち打たれ、いばらの冠に刺(さし)貫かれ給えるほどに、傷あとただれ破れ、あけの血に染(そ)みて歩み給いければ、衰弱のあまり足下(あしもと)よろめき、ついに十字架の重きに堪えずして、傾きかがみ、やがて大地(だいち)に倒れ給う。
 ▲主イエズス・キリスト、主を倒しまいらせしは一(いつ)にわれらなり。われら罪に陥りたるによりて、主はかかる苦難を受け給うなれば、われら深くこれを悲しみ奉る。この御苦難の功力(くりき)によりて、われらを罪より救い給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(主祷文) 天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを。
 ▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。
(天使祝詞) めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。
 ▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
(栄唱) 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。
 ▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

 主われらをあわれみ給え。▲われらをあわれみ給え。
 願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。▲アーメン。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、われらの心に深く印し給え。

▲:皆で唱える。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より

第3留 イエズス始めて倒れ給う

 福音書には、イエズスが十字架を運びつつ倒れた話は見られない。また、主と共に処刑された2人の強盗の鞭打ちについても何も触れていない。しかし彼らの判決がイエズスの問題とは別個に下されていたので、習慣に従って、道すがら、背中をはだかにして鞭打たれたるという刑罰も含まれていた。2人の強盗にたいするひどい鞭打ち、冒涜や悲鳴の叫び声、鞭打たれるたびに行うイエズスが倒れた直接の原因は、3人の十字架の棒は、安全に引っぱるように、同じロープに縛られていたためであり、またイエズスが長い衣服を再び着せられて、足にからみついたためである。
 鞭打たれるたびに、強盗が身振るいし、避けようとして互いに押し合うので、その被害が3人目を進んでいたイエズスにかかってきた。イエズスは、すでに鞭打たれていたので、十字架を運ぶのも大変であったので、倒れざるを得なかった。

 左膝部
矢印で示す所で、外側にあたる所に強い打ち身の部分がはっきりする。
右膝には打ち身のはっきりした印はあらわれていないようにみうけられるが、
これは、横木の紐は左足につながれていたという仮説を強調させる。

 皮下溢血をした、左眉と左頬のはれ。

(注1)左足は、棒の端にひもで縛りつけられていたので、急に引っ張られると曲がってしまって、エルサレムの道路にしきつめた石に強くあたった。その間に、棒の重みは右の肩にかかっていたのが、何回もの鞭打ち痛めつけられていた左肩のほうに、全部移ってしまうのである。イエズスの手は、その棒に縛りつけられていたので、直接、顔面が敷石にぶつかるのを避けることはできなかった。脳震盪を避けえた唯一の方法は、隣の強盗の十字架に結びつけられていた紐のおかげである。
 聖骸布が、はっきりと示す事実にもとずいた考古学的、文学的証言を考察すると、キリスト教伝統はイエズスが長い十字架の道中に少なくとも3回倒れたということが明白に証拠立てられる。
 聖骸布に見られる証拠としては、倒れる度にできた挫傷や打ち身が聖骸布の人の左膝にはっきりと見られる。
(これは肩から十字架をはずすまで倒れたものであって、その後は歩き方がまったく変わった。)
 他の証拠としては、倒れる時にどうしても打ち当たらざるを得なかった顔に見られる打ち身がある。その一つは、最初に倒れた際の左の眉毛の上のむくみである。顔の他の打ち身に比べると、いちばん軽そうである。その後、ますますひどくなった悲惨な状態を考えてみると、いちばん軽いのが最初に倒れた時のものであると言える。
(これがどれほどひどくなったかといえば、イエズスの肩から横木を取り除かねばならないほどであったのだから。)