祝 使徒聖トマの祝日

『キリスト伝』ジョゼッペ・リッチョッティ著 (Giuseppe Ricciotti, VITA DI GESU CRISTO)
フェデリコ・バルバロ訳より抜粋

第二の生命

632…「これらのことを話し合っている時、イエズスがかれらの中に立ち、”あなたたちに平安!”と仰せられたので、彼らは驚き恐れて、幽霊を見ているのだと思ったが、イエズスは、”なぜ取り乱すのか、なぜ心に疑いを起こすのか?私の手と私の足を見よ。私自身だ。触れて確かめよ。あなたたちが見ている私の、こんな骨と肉とは、霊にはない”。そういって手と足とをお見せになると、かれらは喜びと驚きのあまり信じることができなかった。イエズスが、”ここに何か食べ物があるか?”と仰せられた。かれらが焼いた魚一片(と一房の蜂蜜)をさし上げると、イエズスはそれを取り、かれらの前で食べ、(残りを取ってかれらにお与えになった)」(ルカ24・36~43)。
この場面を書いているのが、医者であり心理学者であることを忘れてはならない。ヨハネ(20・19~23)も同じ場面をしるしているが、医者の研究するような観察には全く触れていない。使徒たちが「喜びと驚きのあまり信じることができなかった」ことも、ヨハネはしるしていない。人は自分の気に入ったことを容易に信じがちであるから、弟子たちはむしろ過信を恐れたのである。ところが、そういう心理は、物質的な証拠を見せられて一掃された。イエズスは、よみがえったが、前と同じ体であり、前と同じく食事さえもできる。「シェオル」(冥府。79)から立ちもどった幻影のようなものではない。よみがえった真実の肉体である。
現実を確かめさせてから、イエズスは未来のことを考えるが、これに触れるのはヨハネである。
「イエズスはまた仰せられた。”あなたたちに平安!父が私をお遣わしになったように、私もあなたたちを遣わす”。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、”聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない”と仰せられた」(ヨハネ20・21~23)。
教会の将来のために、使徒たちへの約束はこうして守られた。
633
その夜使徒たちの奥まった家には、疑い深いトマはいなかった。かれが不在だったのは、その性格から、マグダラのマリアやペトロのいうことにいや気がさし、他の使徒たちと一緒にいなかたのかもしれない。われわれは確かなことは知らないし、すべては推理である。
しばらくして、トマはみなといっしょにいる。使徒たちが、「私たちは主に会った!」といった時、かれはばからしいことをいうなと手を振り、激しい口調で言い返した。「私は、その手に釘の跡を見、私の指をその脇に入れるまで、信じない」。常識をもってほしい。十字架にかけられ、引き裂かれた肉の塊になったイエズスだ。釘つけられ、胸を突き刺された人間が、よみがえるわけはない。マグダラのマリアがイエズスを見たと?女のいうことが何だ。前に七つの悪魔を抱いていた女が信用できようか。使徒たちもイエズスに会って、その傷を見たと?善人のかれらだが、頭がいかれている。見たいことだけを見たのだ、単なる幻なのだ。私はトマだ、落ち着いて、常識がある。こんな時、私がいなくてはだめだ。じっと見て、想像するだけではなく、手で触れ、指で触る必要がある。それができれば、私も信じよう。
実証論者と超批判学者の頭目トマである。八日間もその考えを変えない。他の人のどんな証言も、かれの意見をひるがえせなかった。
「八日ののち、弟子たちはまだ家にいて、トマもいっしょにいた時、戸は閉じてあったのにイエズスがおいでになり、かれらの真ん中に立ち、”あなたたちに平安!”と仰せられた。またトマに向かって、”あなたの指をここに出し、私の手を見よ。あなたの手を出して私の脇におけ。信じない者ではなく信じる者になれ”と仰せられた。トマは、”私の主よ、私の神よ!”と答えた。その時イエズスは、”あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである”と仰せられた」(ヨハネ20・26~29)。
トマは、よみがえったキリストに指を触れただろうか?前後を考えて、そうしなかったと断定してよい。かれの実証論と超批判は、よくあるように、知的な論法によってではなく、心の変化によって崩壊した。