祝 聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)司祭の祝い日

ポルト・マウリチオの聖レオナルド著『隠れている宝-ミサ聖祭-』秋田 聖体奉仕会発行
第一章 ミサ聖祭の偉大な卓越性より 3

6. 私が驚くべき業としてミサについて語るのを聞いて、あなたはびっくりするかもしれません。
しかし、ごく平凡な司祭がミサ中に行使する計り知れない力を、人間或いは天使の、いかなる舌が描写できるでしょうか。
本来、一本の藁屑(わらくず)を地上から持ち上げる力さえ有さぬ人間の声が、神の御子を天から地に呼び下すような驚くべき力を、恵みによって獲得できるなどと、いったい誰が想像したでしょうか。それは、山を動かし・海を干し・天を回すのに要する力よりも、もっと偉大です。それは、神が万物を無から創造された、あの最初の『フィアット』に、ある意味で、匹敵しさえするもので、慎み深い処女(おとめ)が御自分の胎内に永遠の御言葉を宿された、あのもう一つの『フィアット』を、ある程度、凌駕するように思われます。聖母がなさったのは、キリストの体のために質料を提供することに外ならないからです。事実、キリストの体は、聖母自身の内在的な行為という意味での、彼女に『よって』ではなく、彼女御自身とその清い血『から』造られたのです。
ところが、秘跡的な方法は、これと全く異なっており、また大層驚嘆すべきものです。この方法においては、司祭の声が、キリストの道具として働きつつ、主を生み、しかも何度でも、聖別する回数だけ、生むからです。

ヨハネ・ブオノは、仲間の隠修士に、この真理をある程度理解できるものとしました。隠修士は、パンの実体をイエズス・キリストの御体に、ぶどう酒の実体を御血に変える力が、どのような仕方で司祭の言葉に与えられているのか想像し得ず、しかも不幸にも、疑惑の悪魔的な暗示に同意してしまいました。
神の善い僕は、彼の誤謬を認め、泉のところに連れて行き、コップに水をくんでのませました。彼はそれを飲み干したとき、こんなにおいしいぶどう酒を、未だかつて、飲んだことがないと言いました。そこでヨハネ・ブオノは言いました。「愛する兄弟、不思議な真理を今感じませんか。惨めな人間である私を『手段として』、神の力により、水がぶどう酒に変えられるのならば、なおさら神の言葉を手段として — 何故なら司祭は、神御自身が聖変化のために制定された言葉を、用いるだけですから — パンとぶどう酒が、キリストの体と血に変えられることを、信じるべきではありませんか。神の全能に、いったい誰が限界を設けるのでしょうか。」隠修士はこれによって大層効果的に照らされたので、自分の精神からあらゆる疑惑を追い出し、罪に対する大きな償いを果たしました。
からし種ほどの信仰、生き生きとした小さな信仰を抱きましょう。そしてこの崇むべきいけにえに含まれている力強いすぐれた事柄は、数え切れないほどであることを告白しましょう。

また、絶え間なく繰り返されている不思議は、私たちにあまりにも奇妙で認められない、などと思わないようにしましょう。 — つまり、イエズスの極めて聖なる人性のことです。その人性は、幾千幾万の所で増え、言わば、ある種の無限性を楽しんでいます。この無限性は、他のいかなる体にも許されず、主の御生涯の功徳によって、その人性にのみ保留されており、いと高き神にいけにえとして捧げられるのです。

ある不信仰なユダヤ人に、この増加する存在の神秘が、一人の婦人の口によって明らかに示されたと伝えられています。
彼は公共の広場で気晴らしをしていました。すると、侍者を伴い、病人の『旅路の糧』を持った司祭が通りかかりました。
人々は皆、ひざまずいて、いと聖なる秘跡を礼拝し、ふさわしい敬意を払いました。そのユダヤ人だけが何もせず、尊敬の印を示しませんでした。一人の貧しい婦人がこれを見て叫びました。「ああ、哀れな人!この神的な秘跡の内にいらっしゃる、真の神にどうして尊敬を払わないのですか。」
「真の神とは何か」と、ユダヤ人は鋭く言い返しました、「もし、これが真の神なら、多くの神々がいることになるではないか。どの祭壇上にも、ミサの間、その神がいるのだから。」
婦人は直ぐに笊(ざる)を取り、それを太陽にかざしながら、隙間を通って来る光線を見るようにと、ユダヤ人に言いました。それからこう付け加えました。「この笊の隙間を通って来る太陽はたくさんあるでしょうか、それとも一つだけでしょうか、どうか答えてください。」
そこでユダヤ人が一つの太陽しかないと言うと、婦人は答えました。「人と成られた神が、秘跡のうちに身を隠し、一つで・分けられず・不変でありながら、余りにも大きな愛のゆえに、それぞれの祭壇上で真に現実に臨在しておられることを、どうして訝(いぶか)るのですか。」
この説明で、彼は信仰の真理を告白するようになりました。おお、聖なる信仰よ!肉の精神の揚げ足取りに霊の力をもって答えるために、御身[信仰の]光の輝きが必要です。そうです、いったい誰が神の全能に制限を加えようとするのでしょうか。

7. あなたがこのいけにえの本質的な素晴らしさと栄光に感動しないとしても、少なくとも、それがなければならないという重大な必要性によって、心を動かされるように。
もし太陽がこの世を照らさなかったなら、一体どうなるでしょうか。完全な暗闇、恐怖、不毛、この上もない悲惨。
そして、もしミサ聖祭がこの世になかったなら。おお、不幸な人類!そのとき私たちは、どんな善も入っていない、悪で縁まで満ちている入れ物となり、神の怒りの的となるでしょう。

慈しみ深い神が、新約時代に入って、御自分の支配の仕方を少しお変えになったように見えるのを、不思議に思う人々がいます。
昔、神は御自分を軍隊と戦との神と呼ばせられ、雲の中から御手に稲光をもって、民に語られました。
その当時、正義の全き厳しさをもって罪を罰せられました。ただ一つの姦通のために、ベンヤミン族の2万5千人が剣の刃で倒されました。民の数を数えるという、ダビデ王の自惚れのゆえに、神は非常に激しい疫病をお送りになり、三日間で7万人以上の人が亡くなりました。好奇心に駆られた、ある不敬な一瞥のために、神は、恐るべき虐殺で、ベト・シャンの5万人以上の人々を打ち倒されました。
ところが今、神は、虚栄や不真面目だけでなく、最も低劣な不義、最悪のつまずき、そして大勢のキリスト者がいと聖なる御名にたいし、日々絶え間なく吐き出す、極めて反逆的な涜聖をも忍耐強く耐え忍ぼうとされます。どうしてでしょうか。なぜ、神の支配にこれほど大きな違いがあるのでしょうか。
私たちの忘恩の罪は、昔のそれよりも赦され得るものでしょうか。全く反対です。計り知れないほど恵みが増し加えられているので、私たちの罪は、もっと咎められるべきです。
驚くべき寛容の真の理由は、ミサ聖祭であり、ミサの中で永遠の御父に偉大な犠牲 — イエズスが捧げられるからです。
聖なる教会の太陽を見なさい。それは雲を散らし、天を再び清澄にします。神の正義の嵐を静める、神々しい虹を見なさい。

もしミサ聖祭がなければ、世界はこの瞬間に、不義の重荷に耐えられず、深い淵に沈んでしまうだろう、と私は信じています。ミサは、世界をその土台(神)の上に支える、力強いつっぱりです。

ですから、ミサに与っているとき、アルブクウェルクのアルフォンソがしたことを実践すべきです。
彼は猛烈な恐るべき嵐の中で、船団もろとも滅び去る危険にあると認めたとき、次の手段を取りました。自分の船に乗っていた、無垢の幼子を両手に抱き、天の方に高く上げて言いました。「私たちは罪人であるとしても、この子には確かに罪がありません。おお、主よ、この無垢の子供への愛のために、我々にふさわしい死から私たちをお救いください!」その結果をあなたは信じるでしょうか。汚れのない幼子の姿は神の御心に大層かなったので、神は海を静められ、この不運な人々に対して、差し迫って死の恐怖を喜びに変えられました。

さて、司祭が罪の汚れの全くないいけにえを高く上げ、神の御子の無垢を永遠の御父に示すとき、神は何を行われる、と信じますか。ああ、そのとき御父は、イエズスのこの上なく清い無垢を目の当たりにして、深く同情し、我々の嵐を静め、あらゆる必要に応えずにはいられないかのように、お感じになるのです。

このように、まず第一に私たちのために十字架上で流血のうちに捧げられ、それ以来、日々祭壇上で血を流さずに捧げられている、限りなく聖なるいけにえ・イエズスがなければ、私たちにとって何もかもおしまいになり、一人ひとりが他の人に言うでしょう、「では地獄で会いましょう」と。そうです、地獄で!
しかし、ミサ聖祭という宝を持っているので、希望が息を吹き返します。…

11.  あなたは、多分私に言うでしょう、「それでは、多くの犯された罪に対して、神に支払うべき重い債務を帳消しににていただくために、ただ一つのミサに与るだけで十分でしょう。ミサには無限の価値があるので、一つのミサによって、無限の償いを神に支払えるのだから」と。
失礼ながら、早まってはいけません。ミサは確かに無限の価値を持っていますが、全能の神は、『いけにえを捧げる司祭や、それに与る人々の心の状態に応じて』、限られた・有限の仕方でお受け入れになると、知らねばなりません。
ミサの奉献文の中で、聖なる教会は、「ここに集まっているすべての者の信仰と真心をご存知です」と言います。こう言うことによって、偉大な教父たちがはっきりと断言したこと、つまりいけにえによって我々のために適用される宥(なだ)めの程度は、たった今述べたとおり、『司式司祭や、参加者の心の状態に応じて』決まることを、聖なる教会は暗示しているのです。
さて、それでは、最小の信心をもって最も素早く捧げられるミサを探し求める人々の、霊的な無知蒙昧を考えなさい。
更に悪いことに彼らは、殆どあるいは全く信心を抱かずにそれに与り、ミサが捧げられるように配慮する熱意も、もっと熱心で敬虔な司祭を選ぼうとする意気込みも持っていません。
聖トマスの言うように、すべてのいけにえは、秘跡として、位において同等だ、ということは真実です。しかし、だからといって、秘跡に由来する効果において同等だ、とは限りません。
このことから、司式司祭の現実的・習性的な信心が深ければ深いほど、ミサから生じる実は、ますます豊かになるのです。ですから、生ぬるい司祭と信心深い司祭との相違を認めないことは、そのミサの効果という観点から言うと、漁をする網が小さいか大きいかを、気に掛けないということです。同じ考えがミサに与る人々についても当てはまります。

それで、私の最善の知識と力とを尽くして、多くのミサに与るようにとあなたを励まします。しかし、与る数よりも、与っているときの敬虔にもっと注意を払うように勧めます。あなたが、50のミサに与る人よりも、ただ一つのミサにおいてもっと敬虔であるなら、エクス・オペレ・オペラート*と呼ばれている方法で、その一つのミサにおいて、もう一人の人が50のミサをもってするよりも、神により多くの誉れを帰し、一つのミサからより豊かな実を集めるでしょう。【*訳注 秘跡の『第一効果』を表すのに用いられ、『この効果』は、秘跡の執行者を通して、キリスト御自身が聖霊によってお与えになるものであり、秘跡が有効に授けられる限り、執行者や受領者の功徳や徳に関係の無いことを意味します。しかし、熱心に心を整えれば、より多くの恩恵を受けることが出来ます。】
聖トマスは言います、「罪の償いにおいて、捧げものの量よりも、捧げる人の愛にもっと注意が払われるべきです」と。
真に、大きな罪人のあらゆる背きに対して、完全な敬虔をもって与ったただ一つのミサを通して、神の正義が宥められることは事実です。そして、これは聖なるトレント公会議の教えとよく調和しています。すなわち、「この聖なるいけにえを捧げることによって、神は悔い改めの賜物をお与えになり、まことの悔い改めによって、極悪の・最も重大な罪をもお赦しになるのです。」
しかし、このすべてにも拘わらず、ミサに与っているときの自分の内的な心構えや、それに対応する贖罪の量が、あなた自身でさえ分からないのですから、最善を尽くして『多くのミサ』に可能な限り『敬虔に』与ることによって、[罪の償いを]確かなものとすべきです。この神的ないけにえの内に極めて明るく輝いている、神の憐れみ深い慈しみに大きな信頼を抱き続け、生き生きとした信仰と敬虔な潜心とをもって、出来る限り多くのミサに与るなら、幸いです。…
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* ミサの間だけでなく、聖変化した御聖体にはずっと主はお留まりになっておられます。この点でも、このユダヤ人は間違っているのです。 
今でも世界中の聖堂のご聖櫃(せいひつ)の中、御聖体に、主は、まことに現存しておられます。それで、「御聖体訪問は、この地上で、一番甘美な慰め」と多くの聖人方も語っているのです。