祝 聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)司祭の祝い日

ポルト・マウリチオの聖レオナルド著『隠れている宝-ミサ聖祭-』 秋田 聖体奉仕会発行
第一章 ミサ聖祭の偉大な卓越性より 2

4. いかなる宗教的儀式も、ミサという聖なるいけにえの有する特権以上に、偉大な特権をもつことは不可能だ、と私には思われます。ミサ聖祭は、十字架上のいけにえの単なる写しではなく、それと全く同じだからです。そしてその卓越性は、外ならぬ『人となられた神』を司祭として持つことによって、なお一層高められます。大層崇高ないけにえにおいて、三つの事柄が考察の対象になります。
(1) 捧げる司祭、
(2) 捧げられる犠牲、
(3) 捧げ物を受け取られる方の偉大さ。
さて、この三つの考察によって、ミサ聖祭の驚くべき尊さを観察しなさい。
(1) 捧げる司祭は神人イエズス・キリストであり、
(2) 犠牲は神の命、
(3) そして、神以外のいかなるものにも捧げられません。

それで、あなたの信仰を燃え立たせて、真の司式者は人間の司祭ではなく、崇め尊ぶべき方、私たちの主イエズス・キリストであることを認めなさい。主が第一の捧げ手です。それは、この聖なるいけにえを制定して、御自分の功徳によってあらゆる効力を与えられただけではなく、また、各々のミサにおいて、キリスト御自身が、私たちの善のために、パンとふどう酒を、御自分のいと聖なる体と血に変えられるからです。
それで、『人と成られた神』を司祭として持っているという、ミサ聖祭の主要な特権を注意して見なさい。そして祭壇に司式者を認めるとき、彼の最高の尊厳は、目に見えない永遠の大祭司・私たちの贖い主の奉仕者であることに存している、と悟りなさい。
この結果、次のことが生じます。主要な司式者は私たちの主キリストであり、司祭はキリストの単なる奉仕者であるので、捧げる司祭が邪悪で涜聖の罪を犯していても、いけにえが神に喜ばれなくなることは決してありません。
それは、誰でも、召使いの手によって施しを与えるひとが、全く正当に与え主と呼ばれ、召使いが邪(よこしま)で評判の悪い者でも、主人が善良であれば、施しが称賛に値しなくなること・聖でなくなることは決してないのと、同様です。
それゆえ、聖なる、いと聖なる大祭司を私たちに与えて下さった神は、祝されますように。聖なるカトリックの信仰が至るところに広められたので、キリストは、あらゆる所だけではなく、毎日・毎時間にさえ、この聖なるいけにえを永遠の御父に捧げておられます。太陽は私たちに沈むとき、他の人々に昇るからです。こうして、世界の色々な所で、各々の時間に、この全く完全に聖なる大祭司は、御自分の血と魂、御自分のすべてを、私のために御父に捧げておられます。
以上のすべてを、全世界でミサが捧げられる回数だけ、主はして下さるのです。
おお、限りない宝! おお、神の教会の中で私たちの有している、計り知れない富の宝庫!
おお、もしこのすべてのミサに参加できるなら、何と幸せなことか! こうしてどれほどの功徳が蓄えられることか!
愛に満ちた『参加』の実は、この人生において何という恵みの蓄積、あの世で何という光栄の基金となることか!

5.  しかし、この『参加』という言葉は何を意味しているのでしょうか。
ミサに与る人は、参加する義務を果たしているだけではなく、また、共通の祭司職の権利を持っているので、捧げる義務をも果たしています。「あなたは、彼らを私たちの神に仕える王、また、祭司となさったからです」(黙5・10)。
司式司祭は、すべてのキリスト者、特にミサに出席している人たちと、目に見えない大祭司キリストとの、いわば、仲介者です。そして、すべての人と自分自身とのために、キリストと共に、人類贖いの偉大な代価を永遠の御父に捧げます。
しかし、司祭はこの極めて聖なる儀式において、決して一人ぽっちではありません。何故なら、ミサに出席している人が皆、いけにを捧げることに関して、司祭と一致しているからです。それゆえ、司祭は信徒に向かって、「皆さん、この捧げ物を、全能の神が受け入れて下さるように祈りましょう」と言います。それは、司祭が主要な奉仕者の役割を果たしてはいるものの、出席しているすべての者が、彼と共に、偉大な捧げ物を神である父に差し出していることを、信徒が理解するためです。
それで、ミサ聖祭に出席するとき、ある意味で、あなたは司祭職を果たしているのです。