祝 聖レオナルド(ポルト・マウリチオ)司祭の祝い日

ポルト・マウリチオの聖レオナルド著『隠れている宝-ミサ聖祭-』秋田 聖体奉仕会発行
第一章 ミサ聖祭の偉大な卓越性より

1. でたらめな生活を送っているカトリック信者が、無神論的な考えを表明する言葉、信心を台無しにする言葉を吐くとき、それを耐えるために大きい忍耐が要ります。例えば、「ミサなんてたいして価値がない。」「祝祭日にミサに与(あずか)るなんて、つまらない。」…このように話す者は、ミサの極めて聖なるいけにえについての尊敬が、自分には殆ど或いは全くないことを理解しなさい。
ミサのいけにえは、キリスト教の太陽、信仰の魂、カトリックという宗教の中心であり、そこにこそカトリックのあらゆる典礼、あらゆる儀式、またあらゆる秘跡があります。要するにミサは、神の教会のうちに見いだされる、あらゆる善いものと美しいものとの要約です。…

2.  世のはじめから存在していた宗教が皆、神に捧げる礼拝の本質的な部分として、何らかのいけにえを持っていたのは、確かな真理です。しかし、それらの法の全体が、空しいか不完全かであったので、そのいけにえも空しいか不完全か、どちらかでした。偶像崇拝者たちのいけにえは全く空しいものでした。これについて述べる余地は全然ありません。
そしてユダヤ教も、確かに、当時は真の宗教だと、自ら宣言していましたが、貧弱で欠けたところがあり、聖パウロによって、「無力で頼りにならない諸要素」(ガラ4・9)と呼ばれています。罪を消すことも、恵みをもたらすことも出来なかったからです。
私たちが聖なる宗教のうちに持っているいけにえ、つまりミサ聖祭だけが、聖なる、完全な、あらゆる点で欠けたところのないいけにえです。
これによって、信者の一人ひとりが、自分自身の無と、神が有しておられる最高の主権とを同時に宣言しつつ、素晴らしい仕方で神に栄光を帰するのです。それで、ダビデによって「正義のいけにえ」(詩4・6)と呼ばれています。何故なら、ミサは正義そのものであられる方と、聖人中の聖人を、或いはむしろ、正義と聖性そのものを含んでいるからであり、またミサの与える恵みの注ぎと賜物の溢れとによって、魂を聖化するからです。それで、極めて聖なるいけにえ — であるので、これほど偉大な宝についてふさわしい考えを形成するために、ミサの幾つかの神的な素晴らしさをごく簡潔に説明しましょう。
そのすべてを表現することは、我々の貧弱な能力の到底ない得る業ではありません。

3. ミサといういと聖なるいけにえの主要な卓越性は、カルワリオの十字架上で捧げられたものと、本質的に、しかも最高度に、同じであるという点に存しています。違いはただ、十字架上のいけにえが、流血を伴い、一度限りであり、そしてその時、世界のあらゆる罪の贖(あがな)いを完全に成し遂げたのに対して、祭壇上のいけにえは、流血をともなわないいけにえであり、何回でも限りなく繰り返されることが可能で、イエズスがカルワリオで我々のために支払って下さったあの普遍的な贖いを、個々の人と場合に適用するために制定されたという点にあります。
ですから、流血のいけにえは罪の贖いの手段であり、無血のいけにえはその罪の贖いを我々のものとするのです。
つまり、一方は私たちの主キリストの功徳の宝庫を開かせ、他方はその宝庫を実際に利用させてくれるのです。
それゆえ、ミサの中で、贖い主の御受難と御死去の単なる象徴や記念が行われるのではなく、カルワリオで執り行われた、いと聖なる業と全く同じものが、真実な意味において、執り行われるのです。
一つ一つのミサにおいて、私たちの贖い主は我々のために、実際に死ぬことなく、神秘的に死ぬために、つまり現実に生きておられ、しかも同時に屠(ほふ)られたような者となるために戻って来られるのだと、全き真理をもって言えるのです。
— 「私は屠られたような小羊が立っているのを見た」(黙5・6)。…