'93・3・9

マラナタ! おいで下さい!

私の平安をあたえる ♡ すぐそばに、門の前まで来ている まこと愛する者よ! 無花果(いちじく)の譬えをしよう:枝がしなやかに伸び 葉が萌えいでたなら、夏が近いと分かる。 このすべてを見たなら あなたも同じように: 私がそばにいて、門の前まで来ていると知りなさい。 その日と時は、誰にも分からない、天にいる天使たちも、ひとり子も、御父のほかは誰も知らない。*

*マタイ福音書24・32~36。

被造物よ!雌鶏が羽の下に雛を集めるように、私も どれほど皆を集めたかったか、だがいまだに あなた方の多くは拒んでいる! 私ほど大きな愛は見いだせないと伝えるために あらゆる手を尽くしてきた そこで我が聖心のうちに皆を集めようとはしなかったとあなた方があとになって言うことはできない。 そしてこの荒野をいまだ誤ったまま あなた方は勝手にさまよいつづける。 もうすぐ あなた方を訪ねよう。 その知らせを叫ばせるために 私は今 次々と使者を送っている。 目覚めていなさい!

主よ、私は幸せで、歓びに満たされています、マラナタ!
 
こわがらないでよい。 あなたの吐くどの息も いたわり深く見守っている! この四旬節の時期にこう言っておく: 伝道しなさい、我が鳩よ、伝道し 預言しなさい そして告発者たちがあなたを分析し 誤った判断を下そうと 気には留めないように。 愛と忍耐を持ちなさい。 教えてほしい、我が子よ、聖書から単語や文を取り出し 文脈から切り離して分析できようか?

いいえ、主よ、あなたが告げられた、別の単語や文と矛盾するように見えてしまうかもしれませんから。

では これらのメッセージでもそうすることはできない。 私だけが 唯一掟を与え 裁きを行う。*

ヤコブ書4・12。

ヴァスーラ、目には見えないものだけを 目と心で探し求めなさい、見えないもののうちに 不変の栄光がある。 貧しさと弱さを どれほど歓びとするか! 与えている教えは救いのため、そして自由にするためだと 知りなさい、私の霊があるところには、自由もあるからです ♡ 私、主は、霊です*、

*エレミア書4・24、第二コリント書3・18。

書きなさい*:
*主は聖書から示された箇所を写すように頼まれました。
「自然のいのちの<体>があるなら、霊的な<体>もあります。それで、聖書にも『最初の人間アダムは、いのちあるものとなった』と書いてあるのですが、<最初のアダム>はみずから生きる霊となりました。しかし、最初にあったのは、霊的な<体>ではなく、自然のいのちの<体>であり、その後で霊的な<体>があるというようになっています。<最初の人間>は地から出たもの、土で造られたものですが、<第二の人間>は天から来たものです。土で造られたものはすべて、この土で造られた<最初の人間>と同じであり、また、天に属するものはすべて、この天に属するものである<第二の人間>と同じです。そして、私たちは、土で造られた<最初の人間>の生き写しとなっているように、天に属するものである<第二の人間>の生き写しにもなるでしょう。この世のいのちに生きる人間は、神の国を約束された恵みとして受け継ぐことができないし、滅びるはずのものも、滅びないものを受け継ぐことはできない。さあ、ここで私は、あなた方に一つの神秘を告げます。私たちは、皆が皆死の眠りにつくわけではありません。しかし、皆変えられるのです。最後のラッパが鳴り響く時、たちまち、一瞬のうちにそうなります。ラッパが鳴り響き、死んだ人間は復活し、滅び去らないものとされ、そして、私たちも今とは異なるものに変えられるのです。この滅び去るはずのものは、滅びないものをまとい、また、この死ぬはずのものは、死なないものをまとわなければなりません。この滅び去るはずのものが、滅びないものをまとい、この死ぬはずのものが、死なないものをまとうときこそ、聖書に書かれている言葉は成就するのです: 死は勝利にのみこまれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか? 死の刺は罪であり、罪の力は律法です。しかし、私たちの主イエス・キリストを通して、私たちに勝利を与えて下さる神に感謝します*。」

*第一コリント書15・44~57。

そうです、私は罪と死の法則から あなた方を自由にした ♡ 来なさい、走り終えるまで忠実に仕えなさい。 私、あなたの創り主は、一緒に走り終えてあげる。 私と一緒なら、怖れはないはず。 一緒なら食卓は豊かなはずです ♡ 決して 見捨てない。