十字架の道行き 第十四留 

第十四留 イエズス墓に葬られ給う『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

      

 ああキリストよ、主は尊き十字架をもつて世をあがない給いしにより、
 ▲われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。

 時にニコデモとヨゼフはピラトの許しを得て、主の御体(おんからだ)を葬らんと御母(おんはは)よりこれを受け、清らかなる布にて包み、新しき墓に葬り奉れリ。
 ▲主イエズス・キリスト、われらの罪を御墓(おんはか)に隠し給え。われら心のうちに、主を受け奉り、今よりこの世の楽しみに死し、天国において、主を讃美するを得しめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(主祷文) 天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを。▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。
(天使祝詞) めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
(栄唱) 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。
 ▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

 主われらをあわれみ給え。▲われらをあわれみ給え。
 願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。▲アーメン。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、われらの心に深く印し給え。 

▲:皆で唱える。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より

第14留 埋葬

 「十字架につけられたあたりに園があり、その園に、まだだれもいれない新しい墓があった。その日は、ユダヤ人の用意日であり、この墓が近かったので、そこにイエズスを納めた。(アリマタヤのヨゼフは)その墓の入口に石をころがしておいて、帰っていった。安息日は、あけはじめていた。」(ヨハネ19・41~42、ルカ23・54)
 日が暮れてから、3つの星が輝き始めるまで、これが弟子たちにとってイエズスの埋葬の儀式を行う時間であった。それは、全部で1時間である。(注1)ピラトの所に行って、おん体の引き取り方を願い出て、エルサレムの店で聖骸布を購入して、カルワリオにもどるまで、少なくとも30分はかかったことであろう。残り30分で、他の残っていることを全部やらねばならない。その仕事は、足から釘を抜き、柱から横木を引き抜いて、おん体をおろし、両手から釘を取り、アリマタヤのヨゼフの所有する、近くの墓に運んで、簡単におん体を整え、(注2)聖骸布を長く広げておいてある第に上に安置し、簡単に包帯で結び、(ユダヤ人の習慣にもとずいて)香料をたく、そののち、大きな石を入口にころがしておく。ルカの証言のとおり、この時、3つ星が輝き出した時であった。(同時にエルサレムの住居の窓から、ともしびのかがやきが始まった。)急いで家に帰らねばならなかった。安息日の広場から、安息日の休みを告げるラッパの最後の3つの音が響き渡ってきた。完全な埋葬の儀式には、時間がなかった。しかし、法律は、金曜日の夕方の死の場合は、安息日の後に、その埋葬の儀式を延期することをゆるしていた。だから、婦人たちは、安息日が終わって、おん体にぬる香料を買った。その埋葬の儀式は、まず、おん体を7回洗浄し、髪の毛と髭を切りおとし、新しい衣服に着かえさせたうえで、聖骸布を巻く敬虔な聖式で終えるのである。
 聖骸布の人は、洗浄されず、裸のまま、髪の毛をとかして、髭は剃り落とさないままであったが、イエズスは、最後の埋葬の儀式を行う前に復活したので、全部を終える時間の余裕はなかったが、ユダヤ人のやり方に合致したものであった。

(注1)当時、ローマ紀元785年のニサンの月の14日には、日没は、18時08分で、規定による安息日の休みがはじまる3つの星の輝きは19時08分であった。
(注2)エルサレムでは、親族より遺体の払い下げが願い出ない時に、処刑された人を葬る墓があった。もし、親族から遺体の払い下げを願い出てくれば、ローマの法律でも、ユダヤの法律でも許可を与えた。この場合には、まだだれも葬っていない墓所に葬らねばならなかった。これは、義人の遺体をけがさぬという配慮にもとずいていた。(イエズスの場合については、ルカ23・53を参照*のこと。)処刑された者は、完全に骨だけになった時、「清められたもの」と考えられて、そこから一般墓地に改葬が許可された。エゼキエルのヨハネの場合が、このような例である。彼の遺体も、出されて、ギワ・タハ・ミウタル家の墓地に改葬された。ハアス博士によると、解剖学と人類学の調査によって、遺体は、改葬の習慣に従って、ひとつに集めたような、はっきりした秩序によって置かれていたことがわかった。遺体を棺に入れ、埋葬し、骨だけになってから納骨所に改葬していた。興味深いことには、納骨所の上のほうには、植物の枝で編んだ入れものの中に長い骨や、枯れた花束や、穀物の穂束などが見つかった。
*ルカ23・53:お体を十字架から下ろして覆い布に包み、まだだれも葬ったことのない岩に掘った墓に納めた。

ていねいに包まれる…
母の最後の心遣い…

 墓所の台の上に広げられた聖骸布の上に、主の体を置き、他の残りの布を頭から足のほうまでおおって、聖骸布を各部分にていねいに触れておさえた。そののち、埋葬の儀式を正式に行うまで一時的に紐でしばった。だがこの正式の儀式は、実際には行わずじまいであった。
 このように、ていねいにおさえたことによって聖骸布に、つぎのような意味深い姿がはっきりとしるされた。
 脇の傷は、第6、第7肋骨の位置にはっきりした印を残している。もし、聖骸布の人の体を簡単に被うだけであれば、第6、第7肋骨の位置にみられる脇の傷や、「血と水」の流れ出たはっきりした痕跡はうつらなかったであろう。これを証拠づけるために、つぎのようなことがみられる。中腹部におりまげられて、傷のそばにきていた腕の位置や、胸の脇のくぼみを考えると、ていねいにおさえようとしたことによってのみ、このようなはっきりした様子をしめしてくれるのである。
 これに加えて、ていねいにおさえたという他の論拠としては、右腕が、低めで、外側にあるような不自然で以外な形になっている。上にのせた左手の所に布を巻きつけて、布がしわになったので腕が(20センチぐらい)長くなったようである。また、右手首から出て、肘までとどいていた血の流れが中断されている。この中断で、右腕の形が約7センチ長くなっている。
 心臓付近に布を軽くおさえつけたことについて、あと2つと論拠が上げられる。1.重ねられた手の内側(中腹部)にも、外側(恥部)にもおさえつけた。2.左手を右手の上において、このため、下になった右手の跡がだいぶ長くなった。
 1.かさねた手の内側や外側の布を、どれくらい包みこんだがを示すはっきりした証拠はくちびるから、左手首の傷までの長さが、あまりにも、ありすぎることを見ればはっきりする。
 前述のように、頭が胸の上にたれており、手をかさねた状態であったとするならば、実験によってもくちびるの線から左手首までのながった長さを用意に調べることができる。聖骸布ではかったデータ(約68センチ)は、普通のサイズ、すなわち162~183センチの身長の人々から出てくる平均よりも、約20センチも長く、完全にずれている。そこに現れた姿の長さを見ると、包みこんだことによって16~20センチぐらい長くなっている。

 
右腕の血の流れには、とぎれた所(A)が生じた。


L - M:布をおさえこんで、ひだができ、
……の形に浸透して、血の跡ができた。

 2.右手の跡をもっと細密に調査すると、思いやりをもって包みこんだことがわかる。それは、右手の跡があまりにも長くなりすぎていることからわかる。左手は、親指を手の平の中にまげて、上においていたので、左手親指は、右手首の傷の上にあたっていた。上においた左手を少し上げて、布をこの傷に触れさせたので、布にしわが生じた。(L、M)角が幾分丸みをおびた菱形のおりたたんだ血の跡がみられる。この菱形の接点の所には、釘の傷が見られる。(R)
 この菱形の形状は、釘穴から腕のほうに向く部分では、直接に触れていたことがわかる。(No.1.2.3.)反面、反対側は、浸透によってできているので、もっと薄くなっているが、まったく同じ形の跡を示している。(No.1a.2a.3a)これは、布がおさえこまれて、ひだ状になっていたことは、そこの寸法を測ってみても同様にいわれることである。事実、2つの菱形は約5センチあり、親指をまげた左手の高さが約5センチで、それに左小指の高さが2センチとして、下においた右手は、やく12センチ長くなった。この12センチに、心臓付近に布をおさえつけてできたひだの6~7センチを加えたら、右腕がどれほど長くなっているかがはっきりする。聖骸布での跡をみると62センチになっている。62-18(12+6)=44センチ-17.5(手の長さ)=26.5-2(手根首)=24.5センチ(尺骨の長さ)。


上にかけた布を包みこみ、そこをおさえこんだ結果、
加筆した2本の曲線(黒色)のようなはっきりした印が残された。

 右大腿骨部分を包む。図に示すように、聖骸布の前面と背面の写真で、右大腿骨付近に、ひとつ注目する点がある。(体の右の面が、納棺台の手前側にあったので、もっとやさしく注意しながら手を加えることができた。)
 このために2つの跡が示されている。下にあった布も包みこまれていたような形跡がある。これは、大腿部の布を広げて、その跡を見ると、外側に広がっている。包みこんだ時、触れていた部分が多かったからである。
 これは、母親が幼児を包む時とまったく同じものである。(聖母は、喜びながら、幼児イエズスにたいして幾度も行ったことだろう。)今は苦しみにうち沈みながら、鞭打たれ、死後の動かなくなった肢体を同じように包むのであった。
 もうひとつの証拠は、わざと包みこんだ、足の部分にはっきりとみられる血の跡である。これは、足の形の外側にみられるもので、もっとはっきり示すと右かかとと左かかとの外側にある。つい先刻、抜いたばかりの釘の穴から出た血で、足の横付近が血だらけになっていた。埋葬式の終わりころ余っていた布をまとめて、おさえこんで、その部分を包んだことであろう。このことを考えあわせると、左足の外側の大部分に見られる指の跡と、右足のかわった血の跡が説明されよう。
 おん体を布で包みこもうとした別の働きかけのいちじるしい印がみられる。脛骨を測れば、注意を喚起させる点が証拠づけられる。この注意を呼び起こす点は、前面に印づけられた脛骨の下1/3の部分に手を加えたことが聖骸布上に証拠づけられている。これは、長くあまっていたので、布を幾度にも折りまげてやったことを表わしている。そのように折りまげたために脛骨の前面は、ひじょうに長くなってしまった。(約15センチ)実際、脛骨部分の後ろ側の跡は、続いているようであって、約35.4センチあるが、前のほうは、約51センチになっている。(現代では、巨人でないかぎり、形態学上考えられないことである。)下の1/3の部分で、とぎれた特徴がみられる。側面には、布をおりたたんでいるさなかに、粉末を溶液にまぜたものを入れた形跡がある。それは、乾燥してしまって、今でも目には影のようにうつる。

つぎに述べることを考え合わせれば、上のことが正しいとすぐわかる。1532年のシャンベリでの火災の際、銀のケース内にたたんで入れられていたが、熱が、ちょうど脛骨の(前面)下方1/3の位置(焼けた部分以外)の、前に述べた2本の横ひだの所に、小さな焦げ目を作った。この部分を研究してみると、衆知のごとく、熱にたいへん敏感な沈香と没薬が、他の個所よりもたくさんあったことがわかる。
 聖骸布に写し出された全体をよく見ていくと、完全に全表面ではないとしても、実際には、体の全体、特に傷や、腫れた所や、血の流れ出た所などを、布でどれほど包みこもうとしたかという心遣いのあとが見られる。
 もし、イエズスの母、マリアが、その場に居合わせたことを認めるならば、このようにていねいに包みこもうとするのは、彼女をおいて他にだれかいたろうか。この母の心遣いがなかったならば、これほど細部にわたってのはっきりと印された現象は得られなかったことであろう。


このように包みこんだので、左右の足の外についていた血の跡が印された。
布のしわのために裏に跡をのこした。


(大腿部から下の足の方の前面と背面図)

「おん頭においてあった汗ふき布。」(ヨハネ20・7)

 聖骸布を調べると、墓所の台の上で、聖骸布の人の胴の正しい姿勢を測ることができるだろうか。
 一般に考えられているのに反して、胴は、墓所の台の上に水平に真直ぐにのびていたのではなく、むしろ前かがみになっていた。
 その証拠には、形態学的にも、聖骸布の人の手は、恥部におかれており、かえって、左肩は右肩よりも高くなっている。十字架上で、背のびする最後の姿勢によって身体は自然に右によりかかっていったことを思い起こされる。
 死後硬直は、背面のしるしに見られるとおり、上の特徴をも含んで固着してしまった。
 このように遺体は、湾曲の姿勢になっていたので、汗ふき布は、顔の上に置くというよりも、頭の上に置かれて、顔にたれていた。(epi tes Kephales)ここで、聖骸布の人の頭が、墓所の台の上にまっすぐに寝かされ、上向きの姿勢であったと仮定すれば、聖ヨハネが、どうして、頭(Kephales)のかわりに顔(opsis)を使わなかったか説明できない。なぜなら、ここに仮定した姿勢では、汗ふき布でおおうのは、顔がもっとも適した位置であったはずである。
 遺体の埋葬にあたって、7回洗身し、自分の衣服に衣がえさせ、汗ふき布は顔のまわりを、あごあてのようにおおう(これはラザロの場合)か、あるいは顔も上におくのが普通であったが、今は、すでに顔が聖骸布でおおわれていた。ちょうど聖骸布は、裸の遺体を包む変わった衣服となっていた。彼の衣服は、すでにカルワリオ山で、兵士たちがくじ引きで分けていた。
 聖骸布は、まずイエズスの身体の下におかれ、後頭部、頭の頂点、頭の上に折り曲げられ、足まで静かにのばされた。この時、イエズスの友は、布を引っぱったが、布が長かったので、頭の所でいくらかたるませた。(約10センチ)頭蓋腔といわれる所は、何もあと形をしるしていない。これは、前面頭頂骨縫合部に折りたたんだ所がきていた。これはわざと行ったと考えられる。この場合、遺体の顔に最後のあいさつを敬虔に行おうとしたのである。この位置では、布をずらせるだけで、そのあとは、自然にもとどおりにするだけで充分であったことだろう。というのは、聖骸布の余分の所をうしろから頭の上にあげて、後頭部から前面頭頂骨縫合部まで合わせ、あまったひだの部分をうしろのほうに折りまげた。このようにおしはかってくると、聖骸布の印とぴったり合致する。事実、もし聖骸布の余分の所をこのようにしなかったならば、頭の合わせた印が完全に反対になる。前面の姿の印のほうに顔のあとの続きとして、額から前頭部まで、そしてもっと上の方がでて印が続いていたはずである。


頭の前面と後頭部の印のあいだには、なんのしるしもない部分ができた。
(Z-Z')は前面頭蓋の縫合部である。

 顔を汗ふき布でおおって、首に紐でしばることだけが残された。この方法によって、すでに述べた、2つの印の続き具合を解く、聖骸布の頭の両面の印がたやすくできた。
 写真のコピーをよく観察してみると、額のすぐ上で(Z)血のあとが見られる。(打たれたものか、いばらの冠のとげか)これは復元して考えてみると、聖骸布にひだができた時に、傷のすぐ近くにあったZの所に続いていたことが確認される。
 クッションがあったろうか。ここで、聖骸布の人の頭が、直接墓所の台の上についていたかどうかの疑問が生じる。この点に関する調査の要素となるものは、聖骸布にはっきり残された印、とくに、次のことが考え合わされる。首をたれてまげられた胴の姿勢と、その上、後頭部の8つの傷とそこから流れ出た血からはっきりする。第一印象だけでは、この2つの要素は、一致しがたい。実際に、わずかばかりまがった胴の上に頭をたれて、そのうえ、死後硬直になっていたら、後頭部は、平らになっている台には絶対に触れることはありえなかった。しかし、この場合には、後頭部に触れるように台がもり上がっているか、あるいは、後頭部で、布をきれいにくぼんだクッションか、それに類したものでおさえなければならないようである。それは、約13センチの長さの12の血の流れが完全に残っている。凝血のあとは、長時間直接触れていなかったなら、つかないことも考え合わされる。
 頭を置く台のほうの岩を高くしていたことは、考古学で容易に認められる事実である。もうひとつのことは、クッションについても、一般の思いやりから考えられる。それで、アリマタヤのヨゼフとニコデモが買った埋葬用品のひとつに数え上げられないこともない。その上、復活の後、墓にあった汗ふき布についても、買ったことははっきり述べられていない。こういうものは付属的なものであり、主要なものはなんといっても聖骸布沈香であった。
 このように、ユダヤ人の習慣を否定しなくても、かえって先入感なしにそれを受け入れつつ、特別な事情に適応させて、トリノ市にある布は、そこについたしみによって、ユダヤ人の習慣に驚くほと調和している。もしかすると、これはむしろ確実な所で、そのような習慣をはっきり証明しているのである。

ウィリアム・ブレイク:キリストの埋葬 1805年 ロンドン、テートギャラリー William Blake: The Entombment, The Trustees of the Tate Gallery, London