十字架の道行き 第五留

第五留 イエズス、シレネのシモンの助力(じょりょく)を受け給う 『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

     

 ああキリストよ、主は尊き十字架をもつて世をあがない給いしにより、
 ▲われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。

 主はかく歩み行き給うほどに、御気力(おんきりょく)次第に衰えてすでに危うく見え給えり。されど来りて助けまいらする者もなく、かえつてさまざまにののしりたたきたりければ、今ははや堪え難くして沈み入り給わんとす。人々は折しもそこに来合わせたるシレネのシモンに、強いて十字架を助け担わせ、なおも主を駆りて歩ませ奉れリ。
 ▲主イエズス・キリスト、主の十字架を担いて、力弱り給いしは、これ全くわれらの罪の重きが故なり。われらこそシモンに代りて十字架を担うべき者なれば、今より一切の苦難を、主の十字架の分としてわれらに受けしめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(主祷文) 天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを。▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。
(天使祝詞) めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
(栄唱) 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

 主われらをあわれみ給え。▲われらをあわれみ給え。
 願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。▲アーメン。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、われらの心に深く印し給え。

▲:皆で唱える。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より

第7留 キレネのシモンは、イエズスの十字架をになう

 「それから十字架につけるためにひき出した。そのとき、アレクサンドロとルフォの父で、キレネ人のシモンが田舎から出てきて、そこを通りかかった。彼らは、十字架をむりやりその人にになわせた。」(マルコ15・20、マタイ27・31) このように、ゴルゴタまで行きつけるようにと、十字架の重みから解放されるというようなことは、十字架刑にするという歴史にはかつて見られなかったことだった。しかもそれは、肉体的な衰弱の度合いがあまりにもひどすぎたので、道中で死んでしまってはいけないという卑劣な考えによっている。要するに、これも、偽りの同情から生じ、どうしても十字架上で処刑死させたいとの、イエズスの敵対者のサディズム的な考えに基づくものである。
 外科のほうから見ると、聖骸布の人の顔は、ひどい傷で、極限状態のようであった。すでに述べたような道中のあいだに倒れた際の、ひどい打ち身から生じた溢血や鼻柱の骨折の他に、顔は、以前から侮辱をも受けていた。右の頬は鼻の高さまで大きく腫れ上がっているが、これは、棒ではげしく打たれたあとのようである。3の数字の逆の型をした血の流れは、額の中央から出ているが、ここの出っぱった所は棒で打たれたあとの印であろう。
 専門家は、右の上くちびるとあごが腫れ上がっているところを指摘する。医者は、もし同じ状態、同じ事が続いていたら、脳溢血で死んでしまうこともあったろうとの意見を出している。
 肩から横木をはずして、キレネのシモンに渡し(注1)イエズスは足を縛られたまま、じっと倒れていた。苦しみの歩みを続ける前に、立ち上がるには、助け起こされねばならなかった。シモンは涙ぐんで、主を見つめる。カルワリオまで担ぐ重い十字架を縛りつけられることなく自分の肩でこころよく担ったのである。(注2)

(注1)もっとも古い(15~16世紀)十字架の道行きのイコンには、十字架のいちばん長い棒をシモンが持ち、他の所は全部イエズスの肩にかかっている姿で描かれている。(15世紀:ムルシュタ(1400~1467)。デ・リンボルグのジャンとポール。精密画家。クリストフォロ・デ・プレディス。アルブリッヒのマエストロ)16世紀:アルローリ(1535~1607)他多数)このような誤った芸術家の解釈は、福音書によって、シモンの肩の上に十字架がかかっていたにもかかわらず、イエズスが第2、第3回と倒れたことになったことが説明されている。
(注2)福音書の用いた動詞angariaverunt(無理に呼びよせた)の語源はrequisire(徴用する)である。これは、無料の仕事をさせることであって、必ずしも、シモンにとってはしぶしぶと運ぶという意味はない。