十字架の道行き 第四留

第四留 イエズス聖母にあい給う 『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

     

 ああキリストよ、主は尊き十字架をもつて世をあがない給いしにより、
 ▲われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。

 聖母マリアは御子(おんこ)が死罪の宣告を受け給いしを聞き、急ぎ行き給うほどに、途(みち)にてあい給えり。あわれ天使の御(おん)告げありし昔には似るべくもあらず、あけの血に染(そ)み目も当てられぬ主の御姿(みすがた)を見て深く悲しみ給えども是非(ぜひ)なし。御子の御苦難(ごくなん)に御(おん)みずからの悲しみを添えて、われらのために御父(おんちち)天主に献げ給う。
 ▲主イエズス・キリスト、聖母マリアの御心(みこころ)を悲しませまいらせしは、一(いつ)に罪人(つみびと)なるわれらなり。主は限りなく慈悲深くましませば、幸いにわれらの罪を赦し給え。また主と御母(おんはは)との御心(みこころ)を慰め奉るために、われらに力を尽さしめ給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(主祷文) 天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを。▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。
(天使祝詞) めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
(栄唱) 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。
 ▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

 主われらをあわれみ給え。▲われらをあわれみ給え。
 願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。▲アーメン。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、われらの心に深く印し給え。

▲:皆で唱える。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より

第4留 聖母に出会う
 ナザレトの師の慈しみにみちた顔が、はげしく地面にぶつかって倒れた時、わが子を案じながら群衆にまじってイエズスに添って歩いていたひとりの女性の心を、強く打った。彼女こそ、ナザレトのマリア、キリストのおん母である。シメオン老人から預言された苦しみの剣が、彼女の心を刺し貫いた。(ルカ2・35)
 苦しみによる救いの時期となっていた。そこから彼女は逃れることができなかった。大天使ガブリエルのお告げによって、神からの要求を、自由意志によって承諾して、自分の民の救いのために、神のおん子の受肉が始まったのである。
(マタイ2・21、ルカ1・55)
 ここに描かれている自然なひとつの動作には、群衆も兵士も心打たれたことであろう。げんこつ、棒、平手打ち、つばきなどで痛めつけられた上に、最初に倒れてしまった時、美しかった顔を、母のやさしい愛撫が包んだのである。聖母の右の手は、イエズスの左の眉毛の上のほうから頬に近づく。そこは敷石にあたって、ひどい打ち身ができていた。お互いに慰めあわれたことであろう。沈黙のうちに訴え合ったまなざしのやりとりは、おん父のみ旨の完全な従順がこだましている。「あなたのみ旨を行うために来る。」(ヘブライ人への手紙10・9)「私は、
主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように。」(ルカ1・38)33年前から全人類のために、清いオスチア、聖なるオスチア、汚れないオスチアを準備していた彼女の犠牲も、流血のいけにえの奉献と共にささげられた。
 当時の公的ユダヤイズムから、のろわれた者、死刑に処された者の母が、そこに居合わせることは、多くの人にとってはどれほどのはずかしめに合わされることと、うつったであろうか。わずかばかりの友だちだけは、これを寛大に慈悲深い姿と見抜いたであろうか。というのは、彼らは群集が大歓迎し、感嘆して王に仕立てようとしたおりには、そのかたわらには彼女は見られなかったのだから。