祝 ロザリオの聖母の記念

アロイジオ・デルコル神父著『ロザリオ これこそ世界を救う武器! No.3』(世のひかり社)p22~p26より

レパントの大勝利、聖ピオ5世

それは、1571年にさかのぼった、ちょうど今日のこのロザリオの聖母の祝い日にあたります。
レパント海上に、キリスト教の率いる艦隊が、トルコの艦隊に対して、あっぱれな勝利をえることができたのです。
 この戦いには、政治的な問題よりも、宗教上のの問題がより密接にからんでいました。というのは、トルコの大軍が海と陸から、当時キリスト教の中心であったヨーロッパに迫っていましたが、もしもヨーロッパがトルコ軍の手に落ちるということにでもなれば、キリスト教の全滅は免れない運命にあったからです。
 つまり、そのころヨーロッパ以外には、キリスト教の活躍は、あまりみられなかったというわけです。もちろん、近東アジアのあたりに、ひじょうに栄えた時代もありましたが、マホメット教の圧迫を受けて、全滅といっていいほどの痛手を受けていました。
 そこで、人間的な考え方ですれば、わずかに残されたこのヨーロッパが、またまた潮(うしお)のような、トルコの大軍にとり囲まれたのですから、いよいよ、キリスト教にも終わりの日がきたという感じだったにちがいありません。
 ところが、このときです! 神が、この宗教のうちに、じっさいに、人間業をこえたある力が働いているということをお示しになったのは…。わたしたちは、歴史のたえまない流れの中で、このような実例に出会うたびに、神の生きた証明をみるようで、たとえようもない希望とよろこびを感じるのです。
 すなわち、聖母マリアが、ご自分にまかせられたキリスト信者を助けにこられたのです。では、どうして聖母がこの戦いにでてこられたのか、そのときの様子を少し調べてみましょう。
教皇聖ピオ5世
 前にもいったような理由から、キリスト教を守る為に、どうしても、トルコ軍を撃退しなければならなかったので、ときの教皇聖ピオ5世は、ヨーロッパ中のすべての君主たちを集めて、戦いに参加するようにと要求しました。ところが、当時キリスト教国の間でもいろいろの不和や問題があったため、参加したものは、ほんのわずかな軍勢にすぎなかったのです。
 でも、教皇はくじけませんでした。かれは神の助けを信じていました。では、なぜ、そのことを信じることができたのでしょう? それは、この戦いの勝利に、キリスト教全体の命がかかっていたからです。
 もちろん、すべての君主がみな参加してもおよばないほどの大軍を、むこうにまわして戦うのですから、人間の力だったら敗北はみえすいています。しかし、教皇は、聖母のいつくしみに信頼し、きっと特別な恵みによって勝利がえられると信じてうたがいませんでした。
 そこでかれは、戦いをはじめるにあたって、まず、熱烈なロザリオの祈りをささげ、聖母のみ名によってその火ぶたをきったのです。
 はたして、勝利の栄冠は、キリスト信者のものとなりましたが、その勝利の瞬間こそ、実にすばらしいものだったのです!
 では、みなさん、戦後を守る信者たちが、ローマの大聖堂に集まり、教皇の望みにしたがって、そして教皇と心をあわせて、熱心にロザリオの祈りをとなえる、その真剣な光景をうかべてください。かれらの真心と信頼とあつき願いは、あるとき涙とともに、あるときは愛の火花を散らしながら、高く、高く、どこまでものぼっていきました。 ちょうどそのときです。聖母は、輝かしい光のうちに、まぼろしをもって、勝利を、その勝利の瞬間に、教皇にお知らせになったのです!
 この偉大な恵みを長く記念し、感謝をささげることができるようにと、教皇ピオ5世は、この日を特に”勝利の聖母の祝い日”と決め、毎年祝うことにしました。
 ところで、みなさん考えてみてください。あのトルコの大軍をおさえたのは、どんな恐ろしい武器だったでしょうか? もちろん、原爆でもありません……あのバラの花びらにも例えられるほど、やさしさにみちたロザリオの祈り、これが、聖母が全教会を助けるためにお使いになったその武器だったのです。
 そこで教会は、この武器となったロザリオもあわせて記念するために、この”勝利の聖母の祝い日”を、同時に”ロザリオの祝い日”ともよぶことにしたのです。…