『おとめマリアのロザリオ』福者ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的書簡


教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡
『おとめマリアのロザリオ』(ROSARIUM VIRGINIS MARIAE)第三章より 8

33 十回ずつ唱えられる「聖母マリアへの祈り」
 「聖母マリアへの祈り」は、ロザリオの根本的な要素であると同時に、ロザリオを最高の意味でマリアの祈りたらしめているものです。しかしながら、「聖母マリアへの祈り」を正しい意味で理解するなら、この祈りがマリアに向けられた祈りであるという性格は、それがキリストに向かう祈りであることと対立せず、むしろ実際にはそれを強調し、強めています。「聖母マリアへの祈り」の最初の部分は、天使ガブリエルとエリザベトがマリアに語ったことばからとられていますが、ナザレのおとめにおいて実現された秘義を賛美しながら観想するものです。そこで語られることばは、いわば、天と地の驚きを表現しています。そのことばは、神ご自身がその「すばらしい作品」、すなわち、おとめマリアの胎内におられる受肉した御子を見て感じられた驚きを垣間見させてくれるものだといってよいかもしれません。『創世記』の中で、神が「お造りになたすべてのものをご覧になった」(創世記1・31)ときの喜びを思い起こすなら、ここには「神が創造の初めにみ手のわざを御覧になったときのパトス(感情)」の反映を認めることができます。「聖母マリアへの祈り」を繰り返し唱えることによって、わたしたちは神の驚きと喜びにあずかります。そして、喜びと驚きを込めて、歴史上最大の奇跡を認めます。マリアの預言はまさに実現したのです。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・48)。

 「聖母マリアへの祈り」の中でもっとも大切な中心、いわば二つの部分をつなぐ蝶番(ちょうつがい)となっているのは、イエスのみ名です。ときに、急いで唱えたりする場合には、この大切な中心を見落として、観想の対象であるキリストの秘義とのつながりを見失ってしまうことがあります。しかし、まさにこのイエスのみ名とイエスの秘義を強調しているかどうかが、意味のある実り豊かなロザリオの唱え方をしているかどうかのしるしなのです。教皇パウロ6世は、使徒的勧告『マリアーリス・クルトゥス』の中で、イエスのみ名を強調するために、黙想中の神を言い表すことばをそれに付け加えるという、ある地域で行われている習慣を思い起こしています。とくに公の場でロザリオを唱えるときに用いるなら、これはほむべき習慣だといえます。それは、あがない主の生涯のさまざまな出来事に即して、キリストへの信仰を力強く言い表すことになるからです。それは信仰告白であると同時に、わたしたちが注意深く黙想を続ける助けともなります。なぜなら、こうした習慣によって、「聖母マリアへの祈り」を繰り返すことの本来の目的であるキリストの秘義との一致が、いっそう容易に行われるようになるからです。あたかも聖母に勧められてそうするかのように、イエスのみ名、この名のほか、わたしたちが救われるべき名は、与えられていない(使徒言行録4・12参照)イエスのみ名を聖母のみ名としっかり結びつけて繰り返し唱えるとき、わたしたちは秘義との一致の道を歩み始め、そこから、キリストの生涯へとより深く導かれるのです。
 「聖母マリアへの祈り」の後半でわたしたちがマリアに行う祈願の力は、マリアのキリストとの唯一で独自な関係、すなわち彼女を神の母(テオトコス)としている関係に由来しています。それでわたしたちは、今も、死を迎えるときも、彼女の母としての執り成しに身をゆだねることができるのです。