福者ヨハネス23世教皇(第261代教皇)

ヨハネス二十三世 著『わが祈りの日々』より

一月二十四日  
         私は君らの兄弟ヨゼフだ
 私は自分の人がらの卑しさを知り、また神が私を教皇職位という頂点にまで登らせたのは、私の功績にもとづいてではなく、ある神秘にみてる計画によってであることも、知っている。だから私は、このペトロの座から分かれているすべての兄弟や子らに、「われこそは御身らの弟ヨゼフなり」(創世記四五・四)と、くりかえしてよびかける。私ののぞみも、神に願うことも、一に御身らの救いと永遠の浄福とに、ほかならない。来れ。
 この待望の和解と一致は、兄弟愛が維持増大すべきものであるが、それからこそ大いなる平和は生まれてくる。「一切の知恵にまされる平安」(フィリッピ書四・七)これである。それは天上からくるものだからである。これこそキリストが、そのゆりかごの上の天使の賛歌で善意の人びとに告げた(ルカ二・十四)平安であり、また聖体制定のあと約束したものである。「われは平安を汝らに残し、わが平安を汝らに与う、わがこれを与うるは、世の与うるが如くにはあらず」(ヨハネ十四・二七)。
 平安と喜び。喜びもまた、なぜなら、カトリック教会というキリストの神秘体に、真に効果的に属するすべての者は、神的頭から各肢(えだ)に及ぶ生命に参与するからである。しかしわれらの救い主のすべての命令に忠実に従うものは、すでにこの地上の生活で、天国における永遠の浄福の前兆、告知にほかならない喜びにあずかることができるのである。    (一九五九・六・二九の回勅)

 私はいかなる歴史的経過にも、てこ入れしようとは思わないし、だれが正しくだれが不正だったかを示そうとも思わない。責任は分担されている。ただわれわれは集合し、分裂にとどめをさそうと、いいたいだけである。    (一九五九・一・二五の挨拶)