祝 聖ルカ福音記者の祝日

 

『キリスト伝』ジョゼッペ・リッチョッティ著 (Giuseppe Ricciotti, VITA DI GESU CRISTO)
フェデリコ・バルバロ訳より抜粋

源泉 140
ルカは、福音書を、テオフィロという人にあて、のちの使徒行録もそうしている。有名な人に自分の本を献呈することは、その人への尊敬のしるしであり、当時の習慣でもあった。だから、それよりも三十年以上のちに、同じローマにおいて、フラビウス・ヨゼフスも、『ユダヤ古事』(1・8)とContraApionem(1・1、2・1)とを、エバフロディトスに献呈している。
ルカの「テオフィロ」は、「尊い」…と呼ばれているが、これは今私たちのいう「閣下」ということばと似たものであったかもしれない。昔からさまざまの推定は出ているが、「テオフィロ」についてこれ以上何も知られていない。いずれにしろ、テオフィロあてではあっても、その背後にある多くの読者をあてにしていることは、いうまでもない。
テオフィロにあてた序の文は、ルカがこの本の目的、方法、事情を述べる機会となったもので、この上なく貴重な資料である。これは、共観福音書が書かれた時代と、直接関係のある最も重大な文献だといってよい。ここに、できるだけ忠実に訳してみよう。
「私たちの間に起こったできごとの、はじめからの目撃者で、みことばの奉仕者となった人々が、私たちに伝えてくれたとおりに書き残そうとして、多くの人が手をつけたので、尊いテオフィロ、私も、すべてのことをはじめから詳しく調べ、順序よくあなたに書き送るのがよかろうと思った。それは、あなたが聞いた教えの確実さを知らせるためである」(ルカ1・1〜4)……

141 全福音史家のうちルカだけが、当時の世俗歴史とキリストの史実とを結びつけている(2・1〜2、3・1〜2)。
こうしてキリスト教を、全人類の展望の中にとり入れることによって、キリスト教が人類に新時代を開いたことを、鋭く理解させようとすると同時に、かれ自身、視野の広いほんとうの歴史家であることを証明している。これはすでに2世紀前にポリビオスが、『歴史』という本(1・1以下)で、ローマの覇権は文明の歴史に新しい時代を開いたと書き始めているのと同じやり方である。
ルカの本を読むと、またかれが、「異邦人の間によいおとずれ」が広まったのを、「世々代々かくされていたもの」が、「いまや聖徒にあらわされた」(コロサイ1・26)と見たパウロの、弟子であったことが証明される。
…ルカの話の半分は、ルカだけのもので、他の二人の共観福音史家には載っていないことに注目してよい。かれがつけ加えたこの部分には、7つの奇跡、他の福音書にはない二十ぐらいのたとえ話、特にマタイの書いているのとはちがうキリスト誕生の次第と幼時の話などが含まれている。
いうまでもなくこの部分は、ルカが序文にいっている「詳しく調べた」結果であるが、しかしかれはこの話をどこから汲んだのだろうか?

142 同じ序文に、聖伝のことが出ているが、詳しく書いてあるわけではない。「目撃者」、「みことばの奉仕者」ということばの中に、まず、尊敬する師パウロがあることは当然であるにしても、同時に、パウロと共に旅行していた間に、アンチオケア、小アジアマケドニアエルサレム、カイザリア、ローマなどで出会った他の有名な人々のことばも聞いたであろう。この有名な報道源の中には、おそらく、使徒ペトロ、ヤコブ使徒21・18)、カイザリアで宿をとった「福音師」フィリッポ(同21・8)なども数えてよかろう。これ以外の人もあったであろうが、この人々については、無益な推理をしてあれこれ迷う必要はあるまい。
いく人かの婦人についても、次のようなことを書いている。「さらに、かつて悪霊や病気から解放された婦人たち、すなわち、七つの悪霊が去ったマグダレナといわれたマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハンナ、それからスザンナ、その他にもたくさんの婦人たちが、自分たちの財産で、かれらを助けていた」(8・2〜3。24・10参照)。 この婦人たちが、イエズスにつきしたがっていた。社会的身分は高く、経済力のあった婦人たちであったろうに、ヨハンナのこともスザンナのことも、他の福音書には載っていない。 ルカがこの二人に触れたのは、かれらが、自分の報道源の一つであることをほのめかしているのかもしれない。
 この婦人たちよりももっと慎み深く暗示されているのは、いちばん正確で、比類のない権威と重要性を有するもう一人の女、すなわちキリストの母である。ルカの本に出ているあるできごと、たとえば、イエズスが生まれた時のこと、幼い時のことについては、母マリアだけが、証人であり、報道源であったにちがいない。
 ルカは、ちょうどそのころのことを話す時、ほとんど間をおかずに二度、しかもよく似たことばでこういっている。「マリアは、注意深く、そのことばを心にとどめて考えつづけた」(2・19)。それから少し後で「母は、これらのことを、みな心にとめておかれた」(2・51)とある。ルカの分別ある文の中で、こうして考えと表現とが重複している事実は、雄弁にかれの報道源を語っているように思われる。ルカが、個人的にマリアを知っていたかどうか、それはわからないが、直接マリアと話しあわなかったにしても、実子イエズスの死後代わってマリアのめんどうをみた、いわば養子の使徒ヨハネヨハネ19・26〜27)を通して、正確な報道が伝わったにちがいない。 六世紀の「読師」といわれたテオドロスより以前のある伝承—証明されてはいないが—によれば、ルカがマリアの顔を描いた絵描きであるといわれている。このいい伝えは、のちにずっと数が多くなるが、ルカがマリアの絵を描いたのは、絵筆ではなくペンの表現によってであった。母マリアの目の前で展開した事実を—これがのちに、キリスト教の画家の、古典的主題となったが—つまりキリストの幼時を、かれは文に書いた。この話には、リズムのある詩も含まれているが、それを見ると、ヘブライ語、アラマイ語の文書も参考にしたようである。こう考えると、その話のギリシャ語に、セム語的な言い回しが多いことの説明がつく。ルカがばくぜんと序文で語っていることの他には、そういった文書がどんなものでいつごろのものかについては、何も確かなことはいえない。また、現代の幾多の憶測も、昔の文書についてのデータの不足を補うことにはならない。