お二人の新聖人は、聖骸布をどのように見ておられたか?

ガエタノ・コンプリ神父監修『聖骸布の男』より

ヨハネ23世(在位1958~1963)は、1962年に第二バチカン公会議の開催にこぎつけた教皇ですが、
1959年、聖骸布研究会のメンバーに向かい「ここに神の業(わざ)がある」

ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)は、1980年5月13日、初めてトリノを訪れたときに、
「無言ではあるが、非常に雄弁な証人である」。また1998年5月24日、前年に火災があったにもかかわらず聖骸布が公開されたとき、再びトリノを訪れた教皇は、
聖骸布は人間の知性への挑戦です」—人間ひとりひとり(特に学者)が、聖骸布の理性や人生への深いメッセージを謙虚に受け入れるには、努力が要ります。聖骸布から生ずる神秘的な魅力は、私たちにこの尊い布の歴史やイエスとの関係を問いかけますが、これは信仰の問題ではありませんので、教会としてはこの問いに答える立場にはありません。この布が救い主のご遺体を包んだかどうかという問題を解明することは学者に与えられた課題です。教会が望んでいるのは、先入観なしにこの研究に取り組む姿勢です。真の自由を保ち、科学的研究法を注意深く適用し、信仰者の気持ちを尊重しながら研究することです。

聖骸布福音書の鏡です」—この尊い布を考察するとき、4福音書が述べているイエスのご受難やご死去に深い関係があることを無視してはなりません。

聖骸布は人間の苦しみのイメージです」—目先の利益や技術の進歩のみにとらわれている現代人には、この布は兄弟たちが虐げなどにより苦しんでいることを思い出させ、それについて考えさせます。

聖骸布は神の愛と人間の罪のイメージです」—この布は、救い主イエスの死の最終的な原因は何であったかを発見させる手がかりです。

聖骸布は限界のイメージです」—この布は、人間となられた神の子が最期に遂げた死を示すと同時に、死がすべての終わりではないことも示しています。

聖骸布は、沈黙のイメージです」—人は、死の沈黙において語ることはできませんが、この布は、沈黙から真理や命が生まれてくることを示しています。