十字架の道行き 第15留 イエズスは復活する

          
 
          

  

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より

第15留 イエズスは復活する

イスラエルの人々よ、聞きなさい。あなたたちは、ナザレト人のイエズスを、悪人の手によって、はりつけにして、殺したのです。しかし、神は、彼をおよみがえらせになりました。彼は、死の支配下にとどまれないお方でした。実に、ダビドは、彼について、”あんたの聖なるものが腐敗するのを、おゆるしにならない”といっています。兄弟たちよ、太祖ダビドが死んで葬られた墓が、いまも私たちの中にあるということを、はっきりと私にいわせてください。しかし、彼は預言者であったので、自分の王座に、子孫のひとりをすわらせると、神が誓って約束されたことを知っていました。そこで、”彼は死者のところに捨ておかれず、その体は腐敗を知らなかった”ということばで、キリストの復活を予見して告げたのです。神が復活させられたのは、そのイエズスであります。私たちはみな、そのことの証明者です。」(聖ペトロの説教、使徒行録2・22~32)
外には、不寝番をして部署についている兵士をおいて、大きな円い石が墓の入口の所におかれて、そのうえ封印されていた。
 イエズスは、ご自分の生命を再び得て、物質の規則から解放されて、目には見られずに、歴史の光栄ある墓所の白味がかった、赤い岩を通り抜けた。
 復活の天使が、夜明けに輝きながら、石をころがす時には、きれいにたたまれ、別々に置かれた布と汗ふき布は、盗人によってではなく、神の力によって墓所より取り去られた光栄にみちるおん体を証明する、神の単純でしかも最初のはっきりした力となった。
 教会の頭であるペトロと、愛する弟子ヨハネの2人が、あの日曜日の朝、墓に行って、最初に調べ、キリストの復活の公的第1の証明を与えたおりには、アリマタヤのヨゼフの墓所にあった布は、上に示したようになっていた。福音書の中で、目撃したヨハネ自身が、これを私たちに伝えたのである。
 もうひとつの証言が、このおどろくべき事実は提示する。それこそ、聖骸布である。
 聖なる体を包んだ聖骸布は、死の前や後に流れ出した血をしみつけていたが、死の前のは凝固し、死後のものは乾燥していた。
 凝血や繊維素溶解についての生化学法則にもとずいて、聖骸布に見られる血の組織は、凝血のはっきりした法則に従っているか、また、布が遺体を36時間包んでいたなら、この場所の状況において、聖骸布の上に見られるような、繊維素溶解の現象が起るに充分な時間であったかなどをここに問いたい。
 実際に、このようなことは、うそごとを述べようとする人にとって、考える余地もなかった。なぜなら、凝血現象や布に残されたそのしみを、ここに見られるように凝血の組織にかなってえがこうとすれば、筆ではとうてい不可能な業である。
 聖骸布の写真によると、そこには、死の前の血と凝血とのしみが見られる。
 線維素で血のしみのまわりを強くかこっており、かえって、そのしみの内部のほうは、血漿がその性質を現して、うすくなっている。(注1)
 聖骸布で証拠づけられる死後の血については、特に、脇の傷の所、腰まで流れ出た血、また部分的に足の裏の所に、遺体の血の組織による乾燥した血が見られる。これは、前もって固まって、生きた血とは反対に、血清で囲まれた血塊となっている。

 左手根骨のかたまった血の流れ。(p84図)

(注1)頭蓋骨の傷を見ても、同様に、組織的な特徴を表わしている。

ここで、聖骸布の線維素溶解現象を証明することができる。これが生じるには一定の現象がある。布に触れていた時間が、一定時間にいたらねば、しみはきれいにできないし、ぼんやりしたものになる。かえって、ある時間を超過してしまえば、血の流れのあとは、線維素が溶けすぎてしまって、しみの形はくずれてしまう。この過程は実証済みである。(注2)
 聖骸布の人の傷つけられた裸の体に、直接触れていた布は、線維素溶解のプロセスが停止されたことを証(あかし)している。専門家の判断によると、これは、その印が、固まった生き血と死後の乾燥した血の特殊な印で、完全にしみこみ、固有な組織を提していることからわかる。


 
額の中央右よりの血の流れ。(p85図)

この2つのあとは、医師の判断では、かたまった血と線維素溶解で印された特徴とをはっきり示す。

(注2)ヴィニョン氏が最初の実験を行い、その後発見された血塊が液化する特殊条件hな、この問題解決のたすけとなった。ブラック博士はつぎのように述べている。「ひどいショックを受けた人における線維素溶解現象は、今日ではよく証明されている。死の前に生じた表皮の血塊は、死後に線維素溶解を容易にさせる。それは線維素溶解の行われる布の働きによるか、最近の働きによるかのいずれかである。線維素溶解でやわらかくなった血塊は、亜麻布から吸収されやすい。そして血塊の組織をきめる実験をすることができる。」

 もしこのプロセスが最後まで進んでいかなかったとするならば、それにかなった理由があるはずで、これには2つの可能性が考えられる。
 1. 体が、もう1度裸にされて盗まれたか。
 2. 体が、ある一定の時間を経過したのちに、自分の力でそこから離れ、20世紀の今日の生理学に、聖骸布にかくされた秘密を提示する特権を与えた。この秘密こそ、人類の歴史上、もっともふしぎな事件と密接に結ばれている可能性がある。それこそ、キリストの復活なのである。
 盗まれたという第一の仮説は、衆議会員から金で捏造されたものである。この説は、復活したキリストのほんとうの証人、あよび第一の使徒と弟子たちには受け入れられなかった。それなら、日曜日の朝、最初に公の調査に出掛けたペトロとヨハネが、きれいにたたまれ、別々に置かれている布を発見した時に、裸にして、盗み出したことをあらためて想像すべきだったろう。しかし、このようなことは当時のユダヤ人の考えでは想像もおよばないことである。なぜなら、遺体についていた布を所有したり触れたりするだけで、「律法上の不浄」と定められていた。(注3)その上、ローマ法によっても墓を汚すような者は死刑に定められていた。(注4)

(注3)「屍に触れた人は、夕方まで不浄な状態となる。」(レヴィの書22・4~6)
(注4)このケースを見ると、墓をけがす者は、衆議会員によるとイエズスの友だちになっていた人々であろう。しかし、イエズスの友だちには、当時事件の生じているあいだには、復活についての観念は何もなかった。彼らはただイエズスの数多くの出現ののち、この信仰に固められた。それから、自分たちの体験したこの歴史的事実を、宣教と教会の基礎の中心点とした。戸を閉ざしていた高間での出現から、ある程度まで、光栄に輝く体の本質をいくらかはわかっていた。このばあい、盗むというtことは、自分たち同様まだ信じていない人々を信じさせるための、復活という目的には、あまりにも冒険的で不つりあいなことである。神殿の護衛隊から厳重に守られ、鉄棒で留められ、そこの岩に封印されていた重い石を取り除くため近づくような勇気ある侵害者がいたならば、ただちに捕らえられ、縛り上げられただろう。そのためにも、キリストの弟子は墓を汚す者だといわれただけであって、実際はそうでもなかった。使徒たちが、どれほど勇気ある者であったかを示すのは、彼らの師の受難の前後のことについて、福音書の証言を見ればわかる。(ヨハネ20・19、マタイ29・56、マルコ14・50)

 この仮説においては、線維素溶解の生化学的実験から、聖なる体が聖骸布に包まれて、一定時間を経過した後に、そこから盗人が取り出していったことを証明しなければならない。しかし、福音書からの証言によって、兵士たちは、土曜日夕刻(夜)から日曜日の朝までいたので、盗み出すことができたとするならば、石の封印前、すなわち土曜日の夕刻日没前であった。しかし、これは考えられないことである。というのは、封印前に、遺体があるかどうかを確認したはずである。もうひとつ考えられることは、封印をして(土曜日夜)から、復活の時(日曜日の明け方)までは、あまりにも時間が短かったので、墓所の番をした兵士の怠りとか、そこから盗まれたとかいうような話は受け入れがたい。盗まれたという話は、関係した衆議会員より、兵士がおそれおののいて逃げ去った後に、作られた話である。盗んだのが、まだ入口が封印されている墓所の、しかも神殿護衛兵が監視している所で行われたというならば話は別である。
 (これもまた考えられないことではあるが)墓所の主であったアリマタヤのヨゼフから、金曜日の夕方ころがされた石に封印をつけた時には、イエズスの遺体があったかどうか調べなかったという州議会員の重大な怠慢があったと考えてみると、盗みが(あったとすれば)土曜日の安息のあいだか、あるいは少なくとも安息の終了直後、すなわち衆議会員が緊急協議会を開き、墓所に万兵を置く件について、ピラトと相談していた土曜日の夕刻に行われたと結論づけられるはずである。
 こうなってくると、布が聖なる体をおおっていた時間を(安息中に盗んだら)大幅に減少させるべきだし、(土曜日安息終了時に盗んだら)少なくとも8~9時間を引かねばならない。(盗むとすれば、エウゼビオや初期の教父たちがいうように、盗人は、体を裸にして、布をきちんとたたむなどの時間を空費し、発見されるのではとか、ひどい罰に合うのではというような危険を犯さねばならなかった。)この場合には、線維素溶解の実験は、聖骸布に触れていた重要な時間を引かねばならないことを証明しなければならない。
 体を聖骸布に包んだまま盗んだという他の仮説が述べられよう。この場合には、不可避的動作によって、傷に触れていた聖骸布の部分から、傷が離れて線維素溶解のプロセスが中断されてしまう。(これは前述の仮説にもどる。)あるいはまた、反対に(布が血と触れているという説であるが)これでは、触れている時間がひじょうに長くなり、しみの形は、布についていた血が極端に変形してしまうほどの結果を提してくる。しかし、トリノ市の聖骸布には、このような点はみられない。
 キリストのばあいに、今になって解決を求めて、エゼキエルのヨハネの残存の発見のおりに行ったような、ユダヤ神学の仮説に逃げ込んではならない。それは、モーゼのようにイエズスもみなの知られないかくれた所に葬られて、その体は発見されていないとの説である。これは、正しい方法ではない。弟子からイエズスの体が盗まれ、(彼らから秘密の場所に葬られた)と論争を続けるにすぎない。これでは、聖骸布は遺体と共にあったはずだから、聖骸布の事実を証明することはできない。

 この仮説に反し、ヨハネの証明がある。復活の日の明け方、墓所の台の上に、布がきれいにたたまれ、(これもきれいにたたんだ)汗ふき布とは別にあった。これは、他に聖骸布があったという仮説を排するものである。この仮説は、福音史家や、教父承伝から排されたものであって、多くの矛盾と不合理の結果を含んでいる。
 しかし、上述のことにもかかわらず、聖骸布がここにある。間違いなく(写真のネガの性質を帯び、現代生化学によってのみ発見しえた血の形態の特徴を有している。この特徴は、ひねくれた現代医学者によっても、筆で模倣することのできないものと認められている。聖骸布には、さめた薄いエンジ色がかった印がついているが、普通では、時間の経過と共に布にしみこんだ血液は変色していて、完全にセピア色になってしまうけれども、布に沈香と没薬があれば、現代化学実験で、そのような色になることが証明されている。ある種の(アロインC₂₀H₁₈O₉のような)化学試薬によおて完全にされた印がついている。聖骸布の全体をみると、十字架に処刑された人の感動的なイメージを浮き上がらせてくる。しかも、この人は先ずむちうち刑に合い、むごたらしい茨の冠をかぶさられ、釘ではりつけられ、死をたしかめるためには通常行われていた脛を折るかわりに、右脇腹をやりで貫かれて、頭をたれて、墓所に埋葬のおりにもその姿勢のままになっていた。このような人こそ、福音書で述べられるイエズスのみであった。そのうえ、顔の形は格別な特徴をもっている。これはルネサンス的美をそなえたもので、写真で私たちが最初にこれに接したのは1898年に現像されたものである。写真技術の発見されない時代に、想像する画家が、筆でしかもネガ版式に描くということは、考えも及ばないことである。
 このようなことは、すべて聖骸布の人の体を約36時間にわたって包んでいた遺骸の布に血で描かれた証の価値がある。この証は、間接的とはいえ、効果的なものであって、イエズスがご自分のために行われた、唯一最高の奇跡に結ばれ、ご自分の荘厳な確認を成就するのである。すなわち「父が、わたしを愛されるのは、私が命をふたたびもどすために、自分の命をあたえるからである。その命は、私からうばうものではなく、私がそれをあたえるのである。私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある。それは、私が私の父からうけた命令である。」(ヨハネ10・17~18)
 そこで、キリストの復活は、ご自身のこの世につかわされたことの頂点であり、頭であるキリストと、その肢体である私たちの、天国の究極光栄の序曲である。みなのために、聖パウロは荘重に宣言した。「キリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰は空しい。しかし、そうではない。キリストは死者の中から復活して、死者の初穂となられた。ひとりの人間によって死が来たように、ひとりの人によって死者も復活する。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生きる。しかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、つぎに、キリストの者である人々、キリストの来臨を信じた者が続く。(コリント人への第1の手紙15・17、20~24)」
 復活したキリストと、キリストのものである人々との最終的出会いをもって、普遍的救済の神秘は完成する。キリストは私たちをサタンの手からうがいかえし、適しい勝利品として、父と聖霊に紹介する。
 キリストを待ちわびていた旧約時代の義人の霊魂は、すでに解放をもたらす訪問を受けた。そののち、新しい不変の約束の「小さな群」も出現を受けた。この小さな群は、キリストの地上での愛の国である教会の創立の40日間に、その輝かしい出現の体験をした。みなに先立って、彼の母マリアが出会い、そののちマグダレナ、敬虔な婦人たち、ペトロ、使徒と弟子たちが出会った。
 ご自分の人間性をもって天に上げられてから、キリストは、信ずるすべての人々と出会われた。私たちの体も神の力によって、彼のように光栄を受ける時、すべての選ばれた人々の最後の復活の時に出会うことであろう。
 汚されなかったこの墓所から、普遍光栄のプロセスがわき出てきた。教会の秘跡と洗礼によって信仰の恵みにおいて保証が与えられた。
 私たちが彼に出会う時、この貴重な種子がおん父に適しい実となっていたら、キリストがご自分に再び引き取られるであろう。「そのとき、それぞれ神からほまれを受けるであろう。」(コリント人への第1の手紙4・5)また「こうして、いつも主とともにいるであろう。」(テサロニケ人への第1の手紙4・17)
 「キリストよ、あなたはとうとい十字架をもって世をあがなわれましたから、私たちは、あなたを礼拝し、賛美いたします。」

(p88~p89図)

 亜麻布で杉綾繊のこの遺骸の布は、(4.36メートル X 1.10メートル)ひじょうに説得力ある「証拠物件」である。これは、研究者が十字架の死を含む処刑の事実を再現するのに役立つ。この人は死の処刑を受ける前に、鞭打ち刑に合い、(今だかつて、歴史家からは他の十字架につけられた者について記録されていない)茨のむごたらしい冠を受け、右脇腹を槍で傷つけられ、清められないうちに裸で布に包まれ、樹脂をぬられたのである。
 ぼやけた印によって、この遺体は腐敗しなかったことを直感的にわかる。もし腐敗したならば、布を完全に保つことさえあぶなかっただろう。主のおん体を弟子が盗み出したという仮説に反して、福音書の証言以外にも、血の跡の形態の研究がある。聖骸布が示すとおり、血の跡は、凝血した生き血と血塊となった死後の血との特徴を示している。これは、はっきりした一定時間約36時間ふれていることからできた繊維素溶解のプロセスによって完全に印づけられたものである。この時間こそは、カトリック信仰によってキリストが復活前に墓所内で過ごした時間にちょうどあてはまる。

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ウィリアム・ブレイク:天使たちに守られる墓の中のキリスト 1805年頃 ロンドン,ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館 William Blake: Christ in the Sepulchre, guarded by Angels, Victoria and Albert Museum, London 
ウィリアム・ブレイク:キリストの墓の扉石を脇へ転がす天使 1805年頃 ロンドン,ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館 The Angel Rolling the Stone Away from the Sepulchre (『1990年ウィリアム・ブレイク展画集』より)
ジョット「我に触れるな」14世紀初頭 アッシジ、フランチェスコ聖堂(『アートバイブルII』より)