十字架の道行き 第一留

十字架の道行きの前の祈 『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

 救い主イエズス・キリスト、主はわれらを罪よりあがなわんためにエルザレムにおいて残酷なる苦しみに遭い、恥辱を受け、十字架を担いてカルワリオに登り、衣をはがれてくぎ付けにせられ、二人の盗賊の間に挙げられて死し給えり。 われ主のかく苦しみ給える地にもうで、御血(おんち)に染(そ)みたる道を歩みなば、鈍きわが心も主の愛の深きをさとりて感謝に堪えざるべし。また主の御苦難の原因なるおのが罪の重きを知りて、たれか痛悔の情(じょう)を起(おこ)さざるものあらん。われかかる幸いを得んと欲すれども能(あた)わざれば、かの地のかたみなるこの十字架の道を歩まんとす。 されどわれもし聖寵(せいちょう)をこうむらずば、愛と痛悔との情を起す能わざるにより、願わくは御(おん)恵みをくだして、主の御(おん)苦しみをわが心に感ぜしめ、かつて聖母マリアおよび主の御跡(おんあと)を慕いし人々の心に充(み)ちあふれたる悲しみをば、わが心にもしみ透(とお)らせ給え。またわれをして今より深く罪を忌みきらいて全くこれを棄て、愛をもつて主の御慈愛に報い、主の御(おん)ために、苦難を甘んじ受くるを得しめ給え。 なおこの十字架の道を、ふさわしき心もて行く人々に施さるる贖宥(しょくゆう)をわれにも、また煉獄(れんごく)に苦しむ霊魂にも、与え給わんことをひとえにこいねがい奉(たてまつ)る。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子(おんこ)の傷を、わが心に深く印し給え。

一留 イエズス死刑の宣告を受け給う 『公教会祈祷文』カトリック中央協議会編 昭和34年度版より

    

ああキリストよ、主は尊き十字架をもつて世をあがない給いしにより、
▲われら主を礼拝し、主を讃美し奉る。
(ああ、キリストよ、主は尊い十字架をもって世をあがない、その聖なる御傷によって、私たちをいやされましたので、主を礼拝し、主を讃美いたします。…『聖母から司祭たちへ』)

人々は主を捕えてカイファのもとに引き行き、あざけり、御顔(おんかお)につばきし、打ちたたき、次いでピラトの裁判にわたせり。 ピラトは群衆の心を和らげんとて主を石の柱に縛りつけ、むち打ち、ついにいばらの冠を御頭(みかしら)に押しかぶせければ、傷つき血流れたり。 されど群衆は少しもあわれと思わずして、なおも十字架に掛けよ、十字架に掛けよと大いに叫びたりしかば、ピラトもせん方(かた)なくて主に死罪をいいわたすにいたれり。
▲主イエズス・キリスト、主を死刑に処せしは、ピラトとユデア人(びと)とにあらず、ひつきようこれわれらの罪の業(わざ)なり。 われら今(いま)罪を犯す毎(ごと)に、主に大いなる苦痛を加え、不当の宣告を受けさせ奉るなり。よりてわれらの罪の罰を赦し給わんことを、ひたすら願い奉る。アーメン。

(主祷文) 天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを。
▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給え。アーメン。
(天使祝詞) めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。
▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
(栄唱) 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを。
▲始めにありし如く、今もいつも世々にいたるまで。アーメン。

 主われらをあわれみ給え。▲われらをあわれみ給え。
 願わくは死せる信者の霊魂、天主の御あわれみによりて安らかに憩わんことを。▲アーメン。
 ああ聖母よ、▲十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、われらの心に深く印し給え。

▲:皆で唱える。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』モンシニョール・ジュリオ・リッチ著 小坂類治、マリア・コスタ訳(ドン・ボスコ社 1976年刊)より


聖骸布に浮かぶキリストの姿、 G・エンリエ氏撮影(1931年)ドン・ボスコ

第1留 イエズス死刑の宣告を受け給う

…翻弄された王権の印、悲劇的戴冠の事実を聖骸布は考えも及ばない形で示している。事実、頭のまわりにだけかかるような王冠の形ではなく、長い茨であんだ、東方の王の戴冠に用いる王冠のように、頭がすっぽりかぶさるような特別な冠を頭蓋骨*全体にかぶせられた、はっきりした印がある。
 右手に葦竹を持たせ、「ユダヤ人の王、ご挨拶したします」といいながら、手のひらで打ち、つばを吐きかけ、おん頭を葦竹でたたき、(ヨハネ19・2、マタイ27・29、マルコ15・19)血がキリストのおん顔に流れた。
 聖骸布には、顔のあとに意外なことが見られる。血のあとがわずかしかない。垂直に流れているものと、もうひとつは右に流れおちた2つの形の血のあとだけである。左にまがっているものはない。右にまがっているのは、茨の冠の傷から流れ出たものと、キリストが十字架にかけられた時に口の右がわから出たものである。後頭部の10の血のあとのうち7つは左に流れている。(言い伝えによると、エルサレムの敬虔な女性がイエズスが十字架につけられる前に、布で顔を拭った時、そこに茨の冠の血の跡が見られた。)

イエズスはカルワリオの道と十字架の上で茨の冠をかぶせられていただろうか?
 イエズスの裁判の福音書と歴史的文書から、ローマ刑事訴訟法では、茨の冠をかぶせる刑のなかったことは事実である。ピラトの前での裁判のあいだに、イエズスが自分から王であると宣言していた王権をばかにするために、兵営で兵士のその場の思いつきによる残酷きわまりない冗談であった。「見よ、この人を」といったのちのことである。前もって鞭打ちの刑を受け棒杖やげんこつで打たれ、つばきをかけられ、頭には茨の冠、顔面におびただしい血のしたたりを見せ、緋色のマントをつけた王の姿をばかにした。それは人に見せるためであった。
 鞭打ちの前に2度もピラトは、イエズスを釈放しようとしていたが、それも皇帝への反抗という上訴にいたるのではないかとの懸念の前に霧散してしまった。「彼を釈放するなら、あなたはチェザルの友ではない。」そして、ピラトはイエズスの十字架刑の判決を下した。ここで茨の冠の場面は終わってしまうのである。イエズスが衣を着て(マルコ15・20)十字架の横木を縛りつけられ、苦しみの道行きをするために茨の冠を頭から取り除かねばならなかった。
(数世紀も下ったころの芸術的源泉だけを除けば)イエズスの頭に再び茨の冠をかぶせられたという信憑性のある歴史的源泉はひとつも存在しない。カルワリオでイエズスが衣服をはがされた時、茨の冠をはずしてから、再び頭にかぶせたというような証拠もない。けっきょく衣服は一枚の衣であり、首の所にだけ穴があいたものだから、冠もはずさないで着せるようなことは不可能であった。

 聖骸布の人の頭蓋骨。

茨の冠でできた、生き血の無数のあとが印されている。
*顔と頭の2つの印に関連がある。この2つの印のあいだ、頭頂にあたる(布の中央付近に)布が折りまげられてなんの印もついていない部分がある。

聖骸布にもとずく十字架の道行き』の序文

 聖骸布についての新しい出版物は、十字架の道行きではあっても、単なる祈りの本とはしたくない。しかしこの本は、祈りに導くものである。聖骸布について私が今まで行った研究の結果を、信心生活の助けに役立たせるようにとの多くの方々のご要望により発行することにした。本書は、十字架刑、とくに聖骸布の研究から得た新しい証拠によって、キリストの十字架の道行きを再現しながら、福音書のテータを生かしつつ、書きすすめていった。
 今までは、苦しまれるキリストの姿を示しながら、歴史上もっとも恐ろしいドラマとして紹介された。その多くは、書物、彫刻、絵画からひきだされる感情的な信心に流されがちだった。しかし本書は、キリストの受難の新しいビジョンによって書かれたもので、想像から創り出したものではない。客観的に再現するために、注意深い調査によってあらわれた事実だけが、記されている。
 そしてより論理的にするため、各留の配分を入れ替えた。―3度倒れられたのちに、シレネのシモンを、十字架につけられる直前にベロニカをおいた。―なお、第15留としてキリストの復活が加えた。
 「キリストは、これらの苦難をうけて、栄光にはいるはずではなかったか。」(ルカ24・26)
これを加えてみると、復活の秘義が完全に私たちの前に展開され、聖パウロを喜ばせた輝かしい希望が私たちにも与えられる。「私たちは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた。それは、おん父の栄光によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命に歩むためである。実に、私たちは、キリストの死にあやかって、彼と一体になったなら、その復活にもあやかるであろう。私たちの古い人間が、彼とともに十字架につけられたのは、罪の体が破壊されて、もはや罪の支配下につかないためであることを、私たちは知っている。なぜなら、死んだ者は罪から脱(のが)れたからである。もし私たちがキリストとともに死んだのなら、また彼とともに生きることをも信じる。」(ローマ人への手紙6・4~8)
 これは、歴史上もっとも光栄ある墓から輝き出る光であり、キリストの神秘体、特に生きているあいだ、大きな艱難に清められ、死後には墓のいやしめの中に最後の復活と終わりない命を待ちわびているすべての人間の墓に注ぎこまれるものである。

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写真と本:故オードリック神父様(フランシスコ会)から提供