明日は灰の水曜日

主日のミサ典礼書』ドン・ボスコ社刊(昭和39年度版)より

四旬節
 四旬節の意義ある期節は、復活の大祝日の準備の期間として、復活の大祝日と同じ時代からはじまったものであろう。しかし、この苦業の期節は、復活前日に洗礼をうけるために、祈りと断食とを行って準備していた洗礼志願者の準備と結びついて行われたものと思われる。
「苦業の洗礼」という考え方は、現在の四旬節典礼にも残されている。
 厳密な意味での六週間の四旬節は、四世紀ごろから定まったらしい。
 大聖グレゴリオ教皇(五九〇〜六〇四年在位)のころの四旬節の断食は、四旬節の第一主日の次の月曜日からはじまることになっていたが、こうすると、主イエズスの四十日の断食と比較して四日足りないので、七、八世紀ごろから、五旬節の水曜日からはじめることになった。
 この日、公けの罪人に、苦業のしるしとして灰をつける行事を行った。昔の教会の規則では、公けの大罪をおかしてそのゆるしを願う信者は、四旬節がはじまるとき、司教又は司祭のもとに行って、灰をかけてもらい、毛衣をうけ、適宜に苦業を定めてもらうことになっていた。この人たちは聖木曜日まで、教会の人々と交わることが出来なかった。聖木曜日になって、ふたたび教会の人々と交わることがゆるされる式があった。
 そこで、現在の四旬節典礼をよく理解するには、昔、日々の典礼にあずかっていた三種の人があったことを考えねばならぬ。すなわち、一つは、一般の信者である、かれらにとって四旬節は復活の祝日の準備であって、今の言葉で言えば、黙想会のようなものであった。また、もう一つは、復活前日に洗礼をうける許可を得た洗礼志願者。そして三つめは、公の罪を犯して公教会を破門され、再び公教会にうけ入れられるために赦免を願っていた人々である。四旬節典礼文は、洗礼志願者、苦行する人々を暗示しており、また、書簡や聖福音にも、そういう人々を教育するための文が多い。そこで、四旬節の平日の書簡の殆どは、旧約聖書からとって朗読している。聖パウロ(ガラティア、3ノ24)がいっているように、人々をキリストにみちびく教師は「旧約聖書」である。
 四旬節の特色は、断食によって行われる苦業である。昔の教会では、この期間、日の暮れてのち一度だけ食事をとることを許していた。この苦業の目的は、大聖レオによると、内的な浄化と成聖とである。
 この期間には、また、断食だけではなく、善業と祈りを特に行わねばならぬ。
 要するに、四旬節は、十字架の光栄に向かって徐々に上っていく姿にたとえてよい。最初の四週間には、人間の救主であるイエズスを、人間の師として紹介し、その御言葉を教える。第五週目は、枝の主日をもって、神の小羊でありメシアである使命を、最後まで完遂し給うキリストの御心を知らせ、この期間、一日一日、キリストの受難の日々に生きるようにと信者に教える。
 四十日という数は、聖なる準備の数と考えられていて、元来は、旧約時代のいろいろの出来事から出ている。すなわち、大洪水の四十日、選ばれた民が砂漠で生活した四十年、モイゼの祈りと断食の四十日、また新約に入っては、主イエズスが荒野ですごし給うた四十日がある。
 初代教会から六世紀まで、四旬節中には聖人の祝日を行わなかった。例外的に最初に行われたのは、トゥルロ教会公会議(六九二年)によって決定されたもので、お告げの祝日である。…
灰の水曜日
…初代教会では、聖木曜日まで教会に入ることをゆるされない公の罪人にだけ、灰をつけることになっていた。ところが、十一世紀に入ると、公の罪人の償いの習慣がなくなったので、信者全部に灰をつけることになった。人間のみじめさを反省させるこの灰の式には、昔は教皇から一信者に至るまで、はだしであずかることになっていた。
 灰をかけるのは、復活の準備としてのこの期節に、どのような精神をもってあたらなければならないかをあらわしている。
 昔はまた、四旬節に入るとき、告白を行うことになっていた。それは、四旬節を清い心ですごさねばならないからである。