マルタ・ロバン(愛と光の家の創立者)の命日


『マルタ・ロバン 十字架とよろこび』より レイモン・ペレ著 愛と光の家発行 \800.-

聖痕の神秘についての黙想
一九三◯年の十月八日、マルタが自分の肉体に十字架に釘づけられた御方のしるしを受けた少し後に、かの女はこの状態について黙想している。いちばん最初に驚いたのはかの女でそして福音のおとめマリアのようにそのことを理解もできない…
「すべては私にとってますます不思議になってくる…でも、私がそれを知る必要があるだろうか? 神の秘密を探るのは私ではないし、だれでもない。私はただ礼拝し、受けいれ、賛美し、そして神のおはからいに自分を全くゆだねるだけだ」
「もし主が、私がなお地上にとどまることをお望みになるならば、それは私の救いのために、私がもっと聖化される必要があるからだ。苦しみのパンをまた食べよう。神のお考えはみな神の神秘にみち、私がその中に入り込むべきではない。わからないままに礼拝しよう」
「おお、おとめマリアよ、私を毎日もっと素直に、もっと忍耐強く、もっと単純であるようにしてください。人に知られず、忘れられますように。神が私のうちに目立つことをなさるのは求めない、むしろ、ただ小さな子供、心の優しく謙遜なものであることを望むだけです」…
マルタの幻影
…「これはチベリアデ湖のほとり、私はたびたびこの波の上を主について行った。ここは、奇跡とかれのおだやかな聖なる威厳で、すっかりしるしづけられている」
「ここはマグダラ、イエズスのおん足もとでしか心が満たされず、休息を見い出すことができなかったマグダラのマリアが、人間的快楽に酔っていたところ。もっと遠くはベトサイダとコロザインで、ペトロとアンドレアの故郷です。東には、このヨルダン川が、湖をつらぬいて長く流れ、全世界の水に、世の罪をとり除かれる聖なる小羊イエズスの与えてくださった力を伝えている。イエズスが、そのとうとい御足で幾度も幾度も踏まれたこの岸辺、一言で静められたこの波、荒れはてた地にひっそりと伸びた花ばな、この石、この岩、谷間のゆり、白く実った麦の畑…みなイエズスが、静かに聞き入る群衆に、これらについての感動的なたとえ話をされながら、眺められたものなのだ」
ゲネザレト湖の岸辺を訪れた巡礼者のうち、熟練した案内人の話を聞いたあと自分の国に帰ってから、喜びに輝く雰囲気のうちにこのような描写をすることができる人は、いったいどれほどいるであろうか。マルタによって見られまた体験された、イエズスの受難の物語を記録したノートのページは、フィネ神父が保証しているように、いっそう感動的なものである。かの女の心は福音にあなりにも浸されていたし、十字架上のキリストとあまりにも深く結びついていたので、キリストの秘密を分ちもっていた。マルタは福音書にはのっていないこまかい点についてまでのべているが、それらはたとえば考古学者によって機会があれば確認されている。
かの女はまた、イエズスがご自分が忍ばれたご受難に向けて御母の心を準備されたことまでも私たちに語る。聖体の秘跡についてかの女は、キリストの御からだは第一のおきてにかかわるもので、御父のみ旨に対するイエズスの全体的な奉献を表明するものだと記している。また同時にキリストの御からだは、私たちが隣人を愛しかれらと分ち合うようにという、第二のおきてをも具体化したものだとのべている。
カルワリオに登って行かれるイエズスについて語るときかの女は「血の池に浸された布のような」とイエズスを描写し、異教徒ピラトさえもぞっとするほどだった。マルタはまた、カイファの館の牢獄(現在の鶏鳴の聖ペトロ聖堂)も描写しているが、かの女によると、イエズスはそこでたいへん苦しまれたのだという。イエズスの十字架の場面をかの女は、文学者としてではなく、あくまでも預言者として自分が見たままを描いている。
(ページ前後して)
第二次世界大戦の戦前、戦中、戦後を通じて、マルタがキリストのご受難をいきることにより、いまにも死にそうになったり、あるいは脱魂状態に入るのを目撃した人たちはたくさんいる。ペリエ神父はハンカチでマルタの血だらけの額をふいたが、そのハンカチはサン・チュズのサスラ家で聖なる遺物のようにたいせつに保管されている。いまもサン・チュズにいて昔私立学校の先生をしていた婦人が「かの女の目から血が流れてくるのを見ました」と話してくれた。もちろん愛と光の家の証人はみな、そういう目撃者である。 だがこうした無数の話もヴァランスの司教とローマ聖座へ送られた二十五ページにおよぶ医学的報告書の前には影がうすい。
…特に恵まれた幾人かの弟子たちに対して神は、キリストご自身が受けられた苦しみを、その身において生きるという特権をお与えになった。たとえばアシジの聖フランシスコシエナのカタリナ、現代ではテレーズ・ノイマンやマルタ・ロバンの場合がそれである。シャルル・ド・フコーは「愛する者と似たものになるのでなければ、愛というものはあり得ない」と言っていたが、イエズスはマルタ・ロバンに「私のようになりたいですか」とおおせになった。マルタは十字架のキリストを眺めるだけでは満足できなかったのである。彼女はキリストとともに苦しみ、主のご受難を分け合って担った。キリストの肢体である教会のためにかの女は、キリストのご受難に欠けているところを、文字どおり自分の肉体で補ったのである。この殉教を忍んで献げたマルタはその生きかたによって、十字架にかけられなければならないのは、キリストの神秘体全体であることを私たちに思い起こさせた。つまり、かしらであるキリストと肢体である教会とである。たしかに私たち一人ひとりはからだに聖痕を受けてはいないが、だが一人ひとり十字架をもっている。マルタ・ロバンは言う。
「すべての存在は、カルワリオであり、すべての霊魂は、それぞれの生活の杯を黙って飲みほさなければならないゲッセマネの園なのです」…
聖三位一体に対する祈り
「おお、聖にして永遠でおられる三位の神よ、あなたご自身とあなたのみわざのゆえに、あなたの分ち得ない本質と、三つのペルソナの同一性のゆえに、あなたの知識の深さと、あなたの知恵の限りなさ、み摂理の広さ、あなたの神秘の美しさのゆえに、神を人とし、おとめを神の母とされた、みわざちゅうのみわざのゆえに、あなたを礼拝し、賛美いたします」
「原罪といまも犯されている無数の罪によって滅びたこの世界に、あなたの御一人子、永遠の初めより愛された最愛の御子を与えようと、心を傾けてくださった限りないあなたの愛を、全能の父よ、礼拝いたします。またご託身という手段を選ばれたことの中に示された、この聖なる愛をも礼拝します」
「あなたは、その全能のお力にすがろうとは望まれず、かえってあなたの聖なる知恵、優しさ、慈しみ、愛に頼るようにお望みになられた。他の道によって私たちのもっとま近に来られることは、おできにならなかったでしょうか。また御母おとめマリアがあなたにとって、どれほどいとおしく大切な方であったかを、いったいだれがかいま見ることができたであろうか」
「あなたは聖母を、最愛の御子のふさわしい母とされるために造られ、偉大な恩恵の賜物を豊かに授けられました。自然的にも、恩恵の次元でも、また神の光栄という点でも、聖母は神のおん手から出た最高の傑作です。造られて存在するものの中で、この祝福されたおとめよりももっと偉大で、さらに高貴で、いっそう完全なものを、主は要求されたことはなかったし、またこれからも決して要求されることはないでしょう」
「おお、永遠にして聖なるみことば、あなたのご託身は世界の核心であり、永遠の昔から備えられたもので、その及ぼす結果は永遠から永遠にわたって広がっていきます」…

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愛と光の家(大阪 黙想の家) 大阪府茨木市大字千提寺136 Tel: 0726-49-1030  Fax:0726-49-1031
マルタ・ロバン…現在、列福調査が進められています。