祝 聖アルフォンソ・リゴリオ司教教会博士の祝日


聖アルフォンソ著『イエス・キリストのご受難』(レデンプトール修道会発行)の第5章より抜粋

エスは亡くなられる前にわたしたちへの愛のゆえに、ご自身を糧として与えて下さいます。

1.「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分のときが来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13・1)
ご生涯の最後の夜、愛する救い主は、熱烈に求めていたこと、つまりわたしたちの愛のために死ぬときが来ていることをご存知だったのです。彼は、わたしたちをひとりぼっちにして、この涙の谷に放棄しておくことには耐えられなかったのです。だから死さえもわたしたちからご自身を切り離さないようにと、祭壇の秘跡のうちにご自身を糧としてお残しになりました。それは彼のわたしたちへの愛を証しするために、この無限の贈り物以外には、彼には、何も残っていないことを、わたしたちに分からせる行為だったのです。「彼は人々を極みまで愛された。」
コルネリウスは、聖ヨハネ・クリゾストムとテオフィラクテに続いて、ギリシャ語のテキストに基づいて「極みまで」という表現を説明しています。「これはあたかも、彼が極限の愛、最高の慈愛をもって人々を愛されたと言っているようなものです。」
ゲリック師の言葉によれば、「聖体の秘跡の中のイエスは、その愛のすべての力を、友人たちのために、あふれさせたままになったのです。」
トレント公会議は、この件についてよりよく説明しています。聖体の秘跡とは、救い主が「わたしたちに対する愛の豊かさをそこに注がれたものである」と主張するのです。
聖トマスが、「これは愛の秘跡であり、キリストの愛の最高の証拠」というのは正しいのです。
聖ベルナルドは「いろいろな愛の中で最高の愛」と呼んでいます。
聖マリア・マグダレナは、聖体を拝領した人は「すべては成就した」と言うことができると言っていました。神はこの秘跡の中でわたしにご自身を与えられたから、それ以上は何も与えられないのです。この聖女は、ある日、修道志願者に、聖体拝領後に何を考えたかと尋ねました。志願者の答えは、「イエスの愛を」でした。聖女は続けて言いました:「そうです。人はその愛を考えるときには、それ以上探さず、その愛に留まるのです。」
世の救い主よ、わたしたちにこの糧の中にご自身を与えて下さるほど寛大になさったから、あなたはわたしたちに何を期待なさるのでしょうか。この秘跡のあとには、わたしたちがあなたを愛さずにいられないようにするために、わたしたちに下さる何が今残っているのでしょうか。愛なる神よ、聖体拝領においてわたしの糧にまでなられた計り知れないあなたの愛を、わたしを照らして、悟らせて下さい。あなたがすべてをわたしに下さったのなら、わたしもすべてをあなたにおささげするのが当然でしょう。イエスよ、わたしはすべてをあなたにおささげしいたします。すべてを超えてあなたを愛し、より一層あなたを愛するために、あなたを拝領することを望みます。どうかしばしばわたしの霊魂にいらして、わたしが完全にあなたのものであるようにして下さい。
愛に燃える聖人、ネリの聖フィリップが、臨終の聖体拝領のときに言ったように、私たちも彼に倣って、「わが愛する者を、わが愛する者を、わが愛する者を下さい」と本当に言えますように。
2.「わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・57)
古代ギリシャの聖ドゥニは、愛は愛する対象に常に一致しようとする傾きがあると言いました。食物はそれを摂取するものと一体となります。ですから、聖体拝領を受けるわたしたちが、彼と一致できるように、主はわたしたちの糧になりたいとお思いになったのです。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ26・26)
ヨハネ・クリゾストムは説明しています。あたかも主はこうおっしゃりたかったようです、すなわち、「あなたとわたしが完全な一致を形作れるように、わたしを糧として受けなさい。」
アレキサンドリアの聖シリルが言っています。「二かけらのロウが溶けて一つになるように、ご聖体拝領をした霊魂とイエスは一つになって、イエスはその霊魂に、そしてその霊魂はイエスのうちに存在するのです。」
聖ラウレンチオはこの点について、「最愛の救い主よ、あなたは、ご自分の心と私たちの心が一つになるようにと、私たちに一致なさりたいと強く望まれたほどに、どうして私たちを愛することがおできになったのでしょうか。主イエスよ、あなたの愛は何と素晴らしいのでしょう」と言っています。
サレジオ聖フランシスコは聖体拝領について正しく話しました。「間違いなく、救い主はこれ以上愛に満ちた、慈しみ深い行為は与えられないでしょう。そこでわたしたちの霊魂に浸透するために、また、信者たちの心と体に親しく一致するために、彼はいわばご自分を滅ぼし、ある意味で肉と化してしまうのです。」天使たちでさえこの主に目を上げようとはしないのに、「わたしたちはこの主に一致し、一つの体となり、同じ肉になります」と聖ヨハネ・クリゾストムは、言っています。しかし、この聖人は付け加えています。どの牧者が自分の小羊たちを自分の血で養うでしょうか。母親たちでさえ子供を乳母に託します。この秘跡では、イエスはご自分の血でわたしたちを養われ、またわたしたちと一致なさいます。聖人はまとめてこう言っています。「わたしたちが彼と共におられるようにわたしたちと一致なさり、実際、これが彼の愛の情熱の結果なのです。」…
3.「知恵そのものなる神、わたしたちにもたらした極端な愛によって狂ってしまわれた神を、わたしたちは見たのです。」と聖ラウレンチオは言っております。
アウグスティヌスは、これこそ、神がご自分の被造物に対して、ご自身を糧として与えるという、愛の狂気に見えませんかと感嘆しています。
「『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい』というのは狂気の沙汰と思われませんか。」被造物はこれ以上のことを造物主に対して言えたでしょうか。「わたしたちは、あえて申し上げるなら、すべてのものの創始者は愛に満ちた善の偉大さのために、道理を外れることをなさった」と聖ドゥニは話しています。さらに加えて、神は、ご自分を人間と化し、その糧となったので、我を忘れていらしたのです。しかし、主よ、これほどの過激さはあなたのご威光に合わないでしょう。
エスに代わってクリソログの聖ペトロが答えます。自分が愛している者に自分を現し、善をなすのを望むときには、愛は理由を探しません。その愛はふさわしいところには行かず、望みどおりに動きます。
「愛は理屈でなく、行くべきところでなく、引かれるところへ行きます。」…