祝 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者の記念

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者の記念

 (デルコル神父著『天の母の警告』世のひかり社 p49~p53より)

コルベ神父の英雄的な活躍

 これに対して、教会をお守りになるマリアは、一つの策戦を、そのときもお考えになりました。その道具となったのは、ポーランド人のマクシミリアノ・コルベと呼ばれるフランシスコ会会員です。かれは、ローマに留学していましたが、その目でフリーメーソンが悪魔の家来であるのをみたとき、聖母に導かれて、一つのアイディアが生まれました。
 それは、「聖母の騎士信心会」、もとの言葉でいえば、「汚れないお方(=マリア)の軍団」のことです。これは、1917年10月17日に、正式に創立される結果となりました。
 かれは、あのとき、その目でみたことをこう書いています、
「フリメッソンたちが日ましに傲慢で、低俗な態度をとるようになってきた。ヴァティカンの窓の下に悪魔どもの旗がひるがえっているのをみる。その旗には大天使ミカエルをうち倒すルチフェルの絵がかかれている。フリメッソンたちは、やがて、教皇をひどくぶじょくするビラを群衆のあいだにまき散らしはじめた。そのとき、わたしの頭に、フリメッソンと、悪魔の他の能力を抗議するための一つの信心会をつくろうというアイディアが生まれた」と。
 以上は、コルベ神父の書き残したことばです。
 こうして、フランシスコ会の七名の修士が「聖母の騎士」となる誓いをしました。その4日前には、すなわち10月13日にはファティマで太陽の奇跡があり、そのまた3週間のちには、ロシアで内乱が爆発しました。
 わたしは、ここでコルベ神父の伝記を紹介するつもりはありません。マリア・ヴィノースカという人は、かれについての感嘆すべき立派な伝記を書きましたが、コルベ神父の列聖に際して、長崎の聖母の騎士社からその日本語訳が出るようになったので、お読みになるようにおすすめします。
 ここで、二つのことだけをいいたいと思います。
 出版がいかに大きな力をもっているかを確信して司祭になったコルベ神父は、まもなくポーランドに帰ると、ワルシャワ市の近くにあるニエポカラノフという「修道院町」をつくりました。ここに大きな印刷所をつくって、数々の新聞や雑誌を発行するようになったのです。
 「聖母の騎士」という名をもつ雑誌は、ポーランド語をはじめ、教会の国際語であったラテン語でも、また他の国の言葉でも発行されるようになりました。
 あとでかれは、35才になったとき、すなわち1929年、日本への布教も考えて日本に渡ってきました。そして翌年4月24日、ゼノ、ヒラリオ両修道士をつれて長崎につくと、わずか一ヶ月後に、日本語の「聖母の騎士」を発行することができたのです。
 最初この雑誌は軽べつされていましたが、のちに高く評価されるようになって、日本のどんな他のカトリック雑誌よりも部数が多くなり(3万6千部ぐらい)、今も劣ろえることがありません。
 かれは、日本でこのすばらしい活躍をはじめたあとで、1936年5月、管区会議のためにふたたびポーランドに帰って、あちらで活発な活躍をしましたが、第二次世界戦争がすべてを中止させました。
 ついに1941年2月17日の、あの決定的な日がやってきました。この日、ドイツ警察は、コルベ神父と他の修士を逮捕して、アウシュビッツに収容してしまったのです。そのうち、収容所のひとりが逃亡したかどで、ドイツ軍の所長は、その報復として、10人を餓死刑にすると発表し、その10名が指名されたのです。とつぜん、その中のひとりの若い父親がなげきはじめ、神父はその人の身がわりを申し出ました。こうして、かれがかわりに地下牢に投げこまれることになったのです。その帰天は、8月14日で聖母被昇天の前日にあたります。
 かれ、コルベ神父は、子どものときに、聖母マリアの出現をうけたことがありました。そのとき聖母は、み手に二つの冠をもっておられましたが、一つは白い花の冠、他のもう一つは、赤い花の冠でした。マリアは、いつくしみに溢れるおん目で少年をごらんになって、おおせになりました、
「どちらを選びますか? 白い冠は、あなたが純潔を守るという意味で、赤い冠は、あなたが殉教者になるという意味です」と。
 少年は、少しのためらいもなく、答えました、
「二つとも選びます」と。
マリアのみ顔がほおえむと、姿が消えました。それは文字どおりに実現したのです。
 コルベ神父のこのことばは、明らかに大災害のときの聖母のみごとな勝利を示しています。この聖母の英雄的な騎士マキシミリアノ・コルベ神父は、1971年10月17日に教皇パウロ6世によって、福者の位にあげられ、11年後の1982年10月10日に、ポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の位にあげられたのです。


(M.コルベ神父のことば集『無原罪の聖母』セルギウス・ペシェク編 聖母文庫 刊より)

聖母の騎士は、広まっている悪に対して無関心ではありません。あらゆる機会、あらゆる場所、そしていつでも人間の霊魂を毒する悪を心から憎み、それと戦うのです。(p91)

私たちのすべての活動が完璧なものになるかどうかは、私たちの意向が完全なものであるかどうかに、すべてかかっています。(p150)

無原罪の聖母は私たちの弱ささえも、より大きな善に変えることがおできになります。これが私にとっての唯一の慰めであります。(p164)

未信者に信仰の光をもたらすために聖母マリアは私たちを日本に遣わされました。聖母マリアは霊的に難破したのろまの私たちをお選びになり、私たちを通して偉大な業をなし遂げていらっしゃいます。それは実に私たちの行いではなくて、聖母マリアのみ業なのです。
日本に着いた時、人々は私たちに言っていました。「まず神について私たちに教えてください。神について充分に教えてから、その後で聖母マリアについて教えてもよい」と。 彼らは純粋な人たちですが、聖母マリアがすべての恵みを分け与えられることを知らないのです。 その恵みの中に信仰も恵みも含まれています。(p200)

 天にまします私たちの神は、すべてのものの第一の始まりであり、最後の終わりであります。人間が神について考えたり話したりする場合に、人間は自分の環境から観念を借用しているわけですが、人間の言葉や知力というものにはどうしても限界があるわけです。人間の神についての観念は不完全なものではありますが、しかし、それは真実なものであります。私たちは神の啓示によって御父は御子を生み、聖霊は御父と御子から生じていることを知っています。いと尊き三位一体のこの生き方は三位一体の神の御手から多少の違いをもって生じた無数で種々雑多な被造物の姿に模倣されています。結果は原因に類似するという一般原則は創造主と被造物の関係においても完全に適用されます。神は無から創造されるのですからなおさらそう言えるのです。どのような被造物であれ、すべては神のみ業であります。
 創造したり、存在を持続したり、生命を与えたり、自然的また超自然的法則に従って生命を成長させたりする神の愛の一つ一つの行為は御子と聖霊を通して父なる神から出ています。このような方法で神はご自分の愛を被造物に与えてくださるのです。そして、御子と聖霊を通さなければ被造物の愛の返礼は父なる神に届きません。このようなことはいつも意識的に起こっているとは限りませんが、しかしいつも実際に行われています。他の誰でもなく、この同じ神が被造物に見られる愛の行為の創造者であります。ただし、もしこの被造物に自由意志がある場合には、その被造物の同意がなければこの行為も起こりません。
 神に立ち返る被造物の愛の極みは、無原罪の聖母であります。聖母は罪の汚れのない完全に美しい存在であり、全く神のものであります。聖母の意志は一瞬たりとも神の意志から離れたことがありません。(p31)

'00・12・31

  キリストは王!
  牧場は青々と茂り 歓喜せよ
  森の木々はこぞって 歓びの叫びをあげよ、
  神の言葉がふたたび 私たちに語りかけています。
  神が口を開かれると、
  あふれる光が私たちに降り注ぎ、すべての人を宝石のように輝かせます。
  その光はあまりに強烈なので 神の聖なる面影は
  まるで 銀色のヴェールを破られたように、おおい隠されます。
  一つの言葉* がそのとき 王の優美さと厳かさと、
  同時に悲しげなため息をもって 語られます。
  どの被造物も 霊的な耳を開いて
  私たちの王のため息を聞くなら、膝をかがめるでしょう、
  悪霊に身を捧げた人でないなら…

神の神殿*1 よ、その塀を調べて来たが 我が言葉を軽んじる傾向があるゆえ 私は満足ではない … 私の天使を送って我が神殿を調べさせ まわりを巡らせた。我が宮殿を調査させに送った天使は 目にしたものに唖然とした … 塀は光沢を失い、王の住まいにふさわしい、象牙の宮殿の塀は 今や崩壊し廃墟と化した、その清らかな流れであなたを潤し、我が住まいを聖化させる聖霊を もはや呼び求めないゆえに。

塀の中で、あなた方を宝*2 で満たし 不思議を行い 私自身の十全さを その中にうち建てることが我が意図。我が慈悲深い意図とは 心を込めて私自身をあなたのうちに注ぎ込み あなたを神にするというもの。私の意図が分かるか? 我が教会だけでなく、被造界全体にとっての至高の神である私は 私自身をあなた方に与えたいと恋い焦がれる。 私がいのち与えつつ あなたのうちを通るときは 必ず気づかれよう。 実に哀れな塀のうちに いのち与える泉が湧き出でる! そしていのちが再び甦るとき、あなたは歌と歓びをもって、こう叫ぼう:

「その大いなる荘厳が被造界全体に及ぶ この上なく慈悲深い愛すべき神は 私を復活の光で満たして下さいました! その聖なるみ名は 称えられますように! 三位一体のわが神が 私のうちに光注がれたのです。 全被造界の花婿が私のうちに踏み入られ ご自分の口から直接流れ出る神秘の知識で私を包み、霊魂を英知の光とその教えで満たされました。 ご自分の民のうちに 罪の赦しを通して救いの力を呼び覚まそうと 厳かな栄光のうちに来られたのです。 ひとえに主のみ心の 限りない慈悲ゆえに ♡」

 *その言葉とは、私は在るI Am。主は私の書体で書くのをお許しでなく、私の手を取られました…
 *1 ここではご自分の民に 主は話しかけておられます。比喩的な話し方をされて…
 *2 この言葉は「美徳」を意味すると知っていました。

ああ その通り! 私のやり方は一切が恵みであり 真理である…そして私の口からは 真理が宣べ伝えられる。我が言葉には混乱も、偽りもなく、荘厳と力と、同時に高貴さを帯びている。 目を覚ましなさい、神殿*3 よ! どうしてまどろむのか? 目の前には、神が荘厳と光のうちにいて、あなたを招いている! 私は至高者として統治し 我が数え切れない宝を差し出そうと あなたの前にいる。 その宝はあなたのもの。

見よ! 曙 *4 は必ず訪れるはずだったが、私には 我が賜物をあなたが評価しているとは思えない。 私の寛大な行為を称える声も聞こえてはこない。 あなたは成熟していない、時代よ、そして大人になっていると自ら思おうとも、我が王宮で成長したのではなく、ほかの場所で育った。我が手もとには、数多の富があり、それを私は惜しげもなく授けるが、それでも、それを受け取ったあなた方の多くは それらを変えてしまい、またほかの者たちは まがい物 *5 と交換し、こうして真理を逸れていった。 

*3比喩的に「霊魂」を指します。   
*4 曙は 慈悲を意味します。
*5主は、ある人たちが、ご自分のメッセージによって回心した後、霊的に未熟なために脱落し、本物と取り違えて、他の偽りのメッセージについて行ったことを説明されています…

我が高貴なテーマ* の初期に、御父は、混迷に陥っている地上を見て 大変気を悪くされ、「あなた方は気むずかしく*1 なった、時代よ…」と言われた。 今日私はこう言う、「私のうちに あなた方は熟さず、ほとんど育ちもせず、その枝はポキンと折れている。その果実は、熟れずに酸っぱいまま、なんの役にも立たない。愚かさゆえに 背信に魅了されてしまったのだ…」。曙が*2 共にいて下さったが 聖なるものをあなたは軽くあしらった。 悪の魅力は 善いものを陰に追いやり、欲望の嵐は 単純な心を堕落させる。

主に選ばれた者たちには恵みと慈悲が仕えると、悪に染まった時代よ、考えたことはないのか? 私があなたを呼んだのを理解したことがあろうか? 我が油そそがれた言葉は 過ぎ去るうわさ話のように儚いものか? 我が現存は 影のように通り過ぎていったか? — あなたにとっては 盗んだ水のほうが魅力あり 隠れて食べるパンのほうが口には美味しいと見える、愚かな時代よ!だからこそ口を 悪にそっくり委ねてしまった。
 
今や、私は我が心をふたたび露に示している。*3 ああ 時代よ! あなたの時代に与えられた恵みを 悟りさえしたなら、我が慈悲という恵みを! 人間の知識の及ばぬ恵みを! そして私は そのひどく邪悪な意図も 我が愛する多くの者たちから受けるであろう蔑みも知っているが、計り知れない愛ゆえに我が意思を実現しようとしている、だが乞食のように愛を欠いたあなた *4 に、私は刑を宣告され、犯罪者として扱われる。 背信の達人、あなた方は 救いもたらし得る我が聖なる宝ではなく 自分たちの世間的な宝に信を置く。

ああ 主よ、善良な人は残っていないのでしょうか? たった一人も?

神以外は 誰も善良ではない … しかし神だけが あなたを神とし、美徳の小道へと入らせ その骨からの骨、肉からの肉となり自らの種子として認知されるようにあなたを神とすることができる…

我が霊は悲嘆にくれている、永遠に及ぶ我が現存を 誰にも拒みたくはないゆえ。*5 神の神殿よ、身を低くして悔い改めるなら、我が大いなるいたわりをもって あなた方の落ち度を赦す用意がある、冒涜の徒が口にした言葉 *6 は 許さないが。 悔い改めなさい、さもないと我が聖霊は 罪の負債を負う体には決してとどまらない。 神に由来するものを非難して 我が聖霊を悲しませないように。 善を悪と呼ぶこと。 それは霊魂に致命傷を負わせる。*7

上から見る全てに我が霊は 打ちひしがれる。 悪を行う者は私の目を逃れることはできない 兄弟に向かって夜のしじまに「復讐」を叫び、夜昼となくわめき立てる者も…ああ、ヴァッスーラ、私の言葉があなたを通してこだまするように。  善人 悪人を問わず、誰にでも伝えなさい:

* これらのメッセージ。   
*1「気むずかしい」とは、容易には喜ばず、すぐあら探しをすることを意味します。
*2 慈悲を表します。  
*3 ここでは、主がエルサレムに入城し この町に涙され、「もし、この日、おまえもまた平和のメッセージを理解さえしたならば!しかし、不幸にも今は、それがおまえの目には隠されている!」と仰しゃったあの日のことを思い出させました。
*4 主のメッセージを迫害してあざける人びと。
*5 — 楽園にまだ入っていず、煉獄にいる霊魂たちはその浄めが終了するまでは神を見ることができません。— 地獄の霊魂たちは、決して神が見えず、神を憎んでいますが、同時にそのことによって苦しむのです。
*6聖霊に対する冒涜(マタイ福音書12・22~32)。  
*7冒涜は。

「私は 天より声を響かせている。善人 悪人を問わず、誰にでも聞こえるように 大声で叫ぶ。 そう、実に、私の声は世界の果てにまで達した。 善人も悪人も同じように 悔い改める必要がある。 善人は我が意思を正確に行わなかったゆえ そして正しい仕方で* 祈らないために。 — 彼らの多くは口先だけで私に近づいて来る。 悪人たちは、心を頑なにし 私にも我が掟にも関心がないため 大罪を犯している。」…

* 謙虚でないと、祈りの中でする願いは聞かれないでしょう。霊魂が謙虚であればあるほど、神の注意を引き 祈りが聞かれます。

(『信徒通信』2013年8-9月号預言欄掲載)

聖母被昇天祭 前晩

貞 聖マリアの被昇天  一級大祝日 白

 聖母マリアの祝日の中で、最も荘厳で、恐らく最古の典礼は、帰天と被昇天との、本日の祝日である。被昇天の不思議な事実についての記録は極めて少ないが、古くからの伝承によってこう伝えられてきた。
 聖伝によると、神の無原罪の御母の死は、原罪の結果としての死の苦しみと恥とを負わなかったといわれる。聖母の死は、むしろ、死の勝利であった。これは、地上の生活から天の生命への、美しき移りであり、聖伝の言葉によると「平和の眠り」であった。
 なぜなら、原罪なくして生まれ、神の母たる聖寵によって、極めて神に近い聖母は、死の鎖にしばられえなかったからである。
 聖母マリアの被昇天に対するわれらの信仰は、われら自身の復活への希望を強め、人間生活の唯物論的な思想を排斥する一つの根拠ともなるのである。
 故に、教皇ピオ十二世は、1950年11月1日、聖母被昇天を、信仰箇条として、次のように宣言したのである。
 「神の無原罪の御母、終生童貞マリアが、地上の生活を終えて、霊魂と同時に身体をも天の光栄に上げられたことは、神の啓示による信仰の真理であると、余は、宣示し、明言し、定義する。」

主日のミサ典礼書』フェデリコ・バルバロ訳編 ドン・ボスコ社発刊 昭和39年度版より