祝 主の奉献の記念


イエズス聖殿に献げられ。聖母の潔の式。
九. イエズスの神殿に献げられたこと—マリアの潔(きよめ)
さてモイゼの律法に定めたる潔(きよめ)の日数が満ちましたので、両親(マリアとヨゼフ)は孩児(をさなご)を主に献げるため之を携へてイエルザレムに参りました。これは主の律法に『総て初めに生まれる男子は、主のために聖なる者と称へられるべし』と録されてある故であります。又主の律法にある如く山鳩一雙(ひとつがい)或ひは家鴿(はと)の雛二羽を犠牲に献げるためでありました。丁度其の時イエルザレムにシメオンと云う人がありました。其の人は義人にして天主を畏敬し、イスラエルの民の慰められることを待ち望んで居りました。又聖霊は彼の衷にお留りになっていました。而して聖霊より、主のキリストを見ない中に死なぬことを示されていましたが、其の時聖霊に導かれて神殿に至りましたら、丁度其の両親が孩児(をさなご)イエズスを携へ、その子のため律法の慣例に遵って、行はんとて来ましたからシメオンは孩児を抱き、天主を讃めて云ひましたには『主よ、今こそは御言に従ひて僕を安らかに逝かせて下さい。我が目はもはや主の救ひを見ました。是ぞ主が萬民の前に備へ給うた者にして、異邦人を照らす光、主の民なるイスラエルの光榮であります』と。イエズスの父母は、孩児に就きて云はれた事を驚嘆していましたら、シメオンは彼等を祝して、母マリアに云ひましたには『此の子はイスラエルの多くの人の堕落と復活との為に置かれ、且つ反抗を受ける徴に立てられます、汝(あなた)の魂も剣にて刺し貫かれ、又多くの人の心の念も顕れませう』と。
又アゼル族なるファヌエルの女に、アンナといふ女預言者がありました。既に至極の老年でありました。乙女の時より七年の間、夫と偕(とも)に居りましたが、寡婦となりて、八十四歳になり、神殿を離れないで、断食と祈祷とを為して晝夜天主に事へて居りましたが、彼女も同時に進み寄りて、主を称讃し、イエルザレムにおいて贖罪を待っていた人々に孩児(をさなご)の事を語りました。両親は主の律法に遵って、総ての事を果たしてから、ガリレアのナザレトなる自分の町に帰りました。而して孩児(をさなご)は漸々(だんだん)成長して、智慧に満ち、愈々(いよいよ)強健(すこやか)になり、天主の恩寵が其の上にありました。(ルカ二の二十二より四十)

原版ジェローム・ナタリス(1507~1580年)著『キリスト伝』
昭和4年(1929)宣教師マキシム・プイサン翻訳発行
『我天主イエズス・キリストの伝図解』No.9 より

寝る前(聖務日課:教会の祈り)の福音の歌

交唱 起きている時も、眠っている時も、
神よ、わたしを救い、守ってください。
キリストのうちにいつも目ざめ、
平和のうちに いこうことができるように (アレルヤ)。

神よ、いまこそあなたは おことばのとおり、
しもべを安らかに行かせてくださる。
わたしは この目で あなたの救いを見た。
あなたが万民の前に備えられた救い、
諸国の民を照らす光、
あなたの民イスラエルの光栄。  榮 交

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聖母マリア様への奉献の祈り

主イエズスのカナにおける奇蹟 


十七、カナの婚宴
三日目に、ガリレアのカナに婚宴がありまして、イエズスの母はそこに居りましたが、イエズスも弟子等(たち)と共に招かれました。宴酣(たけなわ)にして葡萄酒がつきましたので、聖母はイエズスに向かひ『葡萄酒が無くなりました』と云ひました。するとイエズス様は『婦人よ、其は私と貴方とに何でありますか、私の時は未だ参りません』と申されました。そこで聖母は給仕等に向って『彼が汝等に言ふ事は何でもしなさいよ』と言ひ置かれました。さてユダヤ人の潔(きよめ)の習慣に随(したが)って、そこに二、三斗入りの石瓶を六個備えて置きましたが、イエズスは給仕等に『水を瓶に満たせよ』と命令しましたので、彼等は口まで満たしました。するとイエズスは又『今汲取りてふるまひ司(つかさ)に持って行きなさい』と云はれましたから持って行きました。ふるまひ司は酒に化(かは)った水を嘗(な)めて、給仕等は其の由りて来る所を知っているけれども、己は其れを知りませんでしたから、新郎を呼び、之に向かって『誰でも先づ佳酒を出して、酔ひが廻った頃に、劣ったものを出すのに、貴方は佳酒を今まで取って置いたですか』と云ひました。
是はイエズス様の奇蹟の始めでありまして、之をガリレアのカナで行ひ、御自分の光栄をお顕しなさいましたので、弟子等は彼を信仰しました。(ヨハネ二の一より十一)

原版ジェローム・ナタリス(1507~1580年)著『キリスト伝』
昭和4年(1929)宣教師マキシム・プイサン翻訳発行
『我天主イエズス・キリストの伝図解』No.17より

公現の祭日の朝の聖務日課(教会の祈り)
福音の歌(ザカリヤの歌)の交唱

 
  今日、花嫁 教会は、
  天の花婿と、一つに結ばれた。
  花婿 キリストが、花嫁 教会を、
  ヨルダン川で清めて下さったから。
  博士たちは、王キリストの婚宴に、
  急ぎ来て、捧げものを捧げた。
  婚礼の客たちは歓喜した。
  キリストが、水を葡萄酒に、
  変えられたから。

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上記、昔(かつて)唱われていた交唱を、ベネディクト会司祭から教えていただきました。

祝 聖モニカ(聖アウグスチヌスの御母様)の祝い日

子女(こども)のためにする祈

天にましますわれらの父よ、
われは主の御恵み(おんめぐみ)によりて賜わりたるこの子女(こども)を、
謹(つつし)みて主の御保護のもとに託せ奉る。
願わくは御みずからかれらの父となり給え。
われらの愛子(あいし)が世の腐敗に勝ち、
内外の悪しきいざないを防がんがために、御慈悲をもつて、
かれらを強め、悪魔の謀計(ぼうけい)より救い給え。
なおその心に聖寵を注ぎ、聖霊の賜物を与え給いて、
イエズス・キリストを認め愛せしめ、日々 御旨に適(かな)わしめ、
この世においては、熱心に主に仕え、
後の世においては、主の御前に喜ぶを得しめ給わんことを、
われらの主イエズス・キリストによりて願い奉る。 アーメン。

(公教会祈祷文p261~262)

聖ベルナルド著『聖母の歌手』より

第一章 受胎告知 p140~142
神にとって不可能な言葉はない〕

 
だが、マリアよ、お気を付けになってください。天使の口からお聞きになった[御言葉の受肉の神秘に関する]これらすべての素晴らしいことの実現を、絶対に天使ガブリエルの力量に期待してはいけません。では、だれに期待せねばならないのでしょうか、とお尋ねになるのでしょう。マリアよ、天使の言うことをお聞きなさい。「神にとって、不可能な言葉は何一つもありません」(ルカ1・37)
天使はこう言っているかのようです—マリアよ、わたしがこれほど確信をもって、あなたにお約束する事柄なのですが、その実現は、わたしの力量では絶対にできないのです。ただ、わたしをお遣わしになった神だけが、その全能だけが、実現を可能にすることがおできになるのです。なぜなら、「神にとって不可能な言葉は一つもない」からです。そうでうとも、天地万物を、ご自分のお言葉によってお造りになった神にとって、どのお言葉が実現不可能だと言えるのでしょうか。
天使が使った言い方の中で、わたしにとって一番印象的なのはまさに、彼が、神にとってはいかなる行いも不可能ではない、と言う代わりに、神にとってはいかなる言葉も実現不可能ではない、と言っていることなのです。
天使は計画的に「言葉」という表現を使ったのではないでしょうか。その理由はこうだとわたしは思うのです。すなわち、人間にとっては、自分が望んでいることを、言葉に出して言うことはやさしいのです。たとえ望んでいることを、絶対に実現できない場合だってそうなのです。これと反対に、神にとっては、人間が、ただ言葉に出して言うだけで、実際には自分の言うことを実現できないことでも、やすやすと、しかも比較にならないほどやすやすと実現できるのです。
もっと詳しく、ご説明いたしましょうか。もしも人間にとって、自分が望んでいることを、言葉に出して言うのと、それを実現するのが同時に可能であるのなら、いかなる言葉も、人間にとっては実現不可能ではないと言えるはずです。ところが、ことわざにもあるとおり、言うことと、成すこととはそれぞれ別物なのです。しかし、それはただ人間についてだけ言えることであって、絶対に神については言えないのです。
神にとって、しかもただ神にとってだけ、成すことと言うこととは、全く同じものなのです。更に神にとって言うことと、望むこととは、全く同じものなのです。だから、本当に神にとっては、不可能な言葉は一つもないわけなのです。
ここに事柄を一つ申し上げましょうか。預言者たちは、一人の処女が、または産まず女が、身ごもって、子供を産むことを予見し、予告することはできました。しかし、その受胎、その出産を、実現させることはできなかったのです。預言者たちに、先見の能力をお与えになった神だけが、ご自分のお望みになることを、預言者を通して、いともたやすく告知することがおできになったのです。その上、ご自分がお約束になったことを、お望みの時、お望みの瞬間に、ご自身で実現することが、いともたやすくおできになったのです。
実際言って、神にとっては絶対、言行不一致というものはありません。神にとっては、望むことと、言うこととは、同じものなのです。神は真理だからです。神にとっては、言うことと、実現させることとは、同じものなのです。神は全能だからです。実現と、実現の様式との間には、絶対に不一致がありません。神は永遠の知恵だからです。このように、神にとって実現不可能な言葉は一つもないのです。

聖ベルナルド著『聖母の歌手』山下房三郎訳(あかし書房)から