お詫び

『信徒通信9-10月号』の最後ページ 聖書朗読箇所と聖人欄において、10月7日の「☆ロザリオの聖母 記念」が抜けてしまっていました。本当に申し訳けありませんでした。
したがって、昨日は10月8日は聖ペラジア、本日10月9日は、聖ディオ二ジオ司教と同志殉教者、聖ヨハネ・レオナルディ司祭を記念しています。

cf: THE VOICE OF PADRE PIO発行「2013 TOWARDS THE LIGHT -PADRE PIO- man of faith CALENDER」では、先月の聖母の誕生日(9月8日)や、9月29日の三大天使(聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエル)の記念日も、記載されています。

『信徒通信10-11月号』の聖書朗読箇所と聖人欄(本日付け発行)

福者ヨハネス23世 『わが祈りの日々』より

8月5日 諸国民の嘆き

 諸国民のなげき。 この嘆声は、ヨーロッパ内外の各地から私の耳にきこえてくる。陸に海に空中に荒れ狂う大量殺人的戦争は、神の正義の報いにほかならない、人類社会に課せられた神の法令が侵犯されたからである。 神は、ある国民を加護し、その中の義人とその中で行われる善行のゆえに、その国民に不死身と勝利をお与えくださるはずだと主張し、げんにそういいはっている人々もある。神はある意味で、諸国民を形成したにしても、諸国の憲法は人々の自由選定に一任されていることを、忘れているのである。万民に対して神は、社会における生命法則を指令し、福音書がその法典をなしている。
 霊魂と国民とのための生命法則が、正義と普遍的均衡、富や快楽や俗権の使用制限を定める。この法則がやぶられるのにつれて、容赦なき恐ろしい制裁が自動的に発動する。これをのがれうる国は、どこにもない。それぞれに適時に制裁をうける。戦争は最も恐るべき制裁の一つである。それは神の求めたものではなく、人間・国民・国家・為政者によって招かれたものである。地震・洪水・飢饉・疫病は、盲目的な自然法則が適用されたもので、物質界は知性も自由もないから盲目的というのである。これに反して戦争は、神法を無視して、故意におこされるものである。だからこそ、いっそう重大なのである。戦争を勃発させ、助長するものは、いつでも「この世のかしら」(ヨハネ12・31)で、「平和の君」(イザヤ9・6)キリストとは無関係である。
『魂の日記』より 1940年 

『カトリック教会のカテキズム』より

#1181 祈りの家は聖体祭儀がそこで行われ、聖体が安置され、信者たちがそこに集まり、わたしたちのためにいけにえの祭壇においてささげられたわたしたちの救い主なる神の子の現存が信者の助けと慰めのために礼拝される場所なので、清らかで、祈りと典礼にふさわしいものでなければなりません。この「神の家」では、建物全体に利用されているデザインやシンボルなどは、教義とも合致し、しかもそこに現存して活動しておられるキリストを全体的に調和が取れた形で現すものでなければなりません。

#1182 新約の祭壇は、過越の神秘の諸秘跡の源であるキリストの十字架です。教会堂の中心である祭壇上で、パンとぶどう酒の形態のもとに十字架の犠牲が現在化されます。これはまた、神の民が招かれている主の食卓でもあります。幾つかの東方教会では、祭壇は聖墓の象徴(キリストは実際に死に、実際に復活されたことを意味するもの)でもあります。

#1183 聖櫃は「聖堂の中の尊い場所に尊敬を尽くして」安置されなければなりません。聖櫃の品位、位置、安全性などは、聖体の秘跡に真に現存されるキリストの礼拝を助けるものでなければなりません。

#1186 教会堂には終末的な意味もあります。神の家に入るには、敷居をまたがなければなりません。この敷居は罪によって傷つけられた世界から、すべての人が招かれている新しいいのちの世界に移ることを象徴しています。見える教会堂は、御父の家を象徴するものです。神の民はその家に向かって歩み、そこで御父は、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ」(黙示録21・4)います。したがって、教会堂は神のすべての子らに扉を大きく開き、歓迎してくれる神の家でもあります。

#1187 典礼は、全キリスト、すなわちその頭とからだとの行為です。わたしちの大祭司キリストは、天上の礼拝で、聖母マリア使徒たち、すべての聖人、すでにみ国に入った数多くの人々とともに、たえず挙行されておられます。

お詫び

*『信徒通信』7月号聖母欄において誤字がありました。読みづらくて申し訳けありません。


#443 パンだけではなく 1991年2月26日

 この数日間、あなたたちが、祈りと兄弟愛のこのたえざるチェナクルムに、これほど沢山集まっているのを見て、私の汚れなき心は慰めされています。あなたたちは、私がこれほど愛し、また私の敵が日増しに攻撃を加えているこのブラジルの全国各地からやってきました。
 ここで生活し、苦しんでいる教会と、まだ沢山の困難や危険にさらされているあなたたちの祖国を、今日私は、私の汚れなき心の花園に歓迎します。私の子すべてが、私の汚れなき心に自分を奉献し、清めと偉大な"艱難"のこれらの時のために、私が準備してあげた安全な避難所に、できるだけ早く入れるように招きます。
 私は、あなたたちみんなのために、愛情深く、理解ある母です。私は、あなたたちを、平和と祈り、聖徳の道、すなわち、私たちの贖い主であり、救い主であるイエズスとの最も深い一致の道に連れて行きたいのです。
 私は、使徒職におけるあなたたちの奮発心を見ています。また、あなたたちの大きな困難をも知っています。それで、私は、あなたたち毎日の苦しみの重荷を一緒に担います。特に私が愛をもって見ているのは、最も貧しい人、排斥されている人、さげすまれている人たちに対するあなたたちの献身的な奉仕です。それは、これらの人たちを貧しさと困窮の奴隷的生活からから解放するための奉仕です。私は、あなたたちの母として、あなたたちの手をとって、すべての真理を理解するように導きます。

人は、パンだけで生きるのではありません。
 人は、その心の飢えをいやすために、神の口から出るすべてのことばによって、生きるものです。物質的な貧困の他に、霊的な財産のもっと大きな貧しさがあります。
 この霊的どれい制度のくびきにあえぐ私の子らは、なんと多いことでしょう。その人々は、神の否定を土台とする誤ったイデオロギーの犠牲となる人たちです。理論的、また、実践的無神論の謬説は、どれほど広がっていることでしょう。そのために多くの人は、神が存在していないかのように生きています。その人たちは、この国にますます広がっていく種々の宗派に入るために教会からはなれていく人たちです。なぜそうなるのでしょう。それは、私の沢山の子らの飢えている心が、もうすでに神のみことばのパンで養われていないからです。
 この霊的食物を豊かに与えるように、あなたたちに願います。特に、私に奉献された最愛の子らであるあなたたちが、すべての人に福音の光を伝えるために、ますます努力するように願います。福音を、勇敢に、恐れずに伝えなさい。それを完全に明らかに与えなさい。私の子イエズスがなさったのと同じ力づよさをもって福音をのべ伝えなさい。こうして、すべての人が、教皇と、そして教皇と一致している司教たちの教導職に対して、最も深い従順のうちにまことの信仰の道を歩めるように助けてあげなさい。

人は、パンだけで生きるのではありません。
 人は霊魂の飢えをいやすために、イエズスが与えてくださった神の恵みによって生きるものです。物質的な貧困の他に、もっと大きな、そしてもっと危険なものは、霊的貧しさです。この貧しさは、私の多くの子らを、悪と罪、みだらな邪欲、中でも不潔のどれいとし、重いくびきとなっています。この悪は、あなたたちのまわりに、どれほど大きいことでしょう。
 私の敵の"罠"は、なんと腹黒いことでしょう。彼は、しばしば、貧しい人、利用されている人の傷をいやすために、あなたたちに、司祭としての全力を尽くすように刺激しますが、こうして、あなたたちにとって何よりも大切なことを忘れさせています。それは、罪人と悪人のもっと深い傷を考えることです。飢え死にしているこれらの人々に、神の恵みの糧を与えなさい。そのためには、人々が、神のあわれみの泉にたち戻るように助けてあげなければならないのです。それは、罪のゆるしの秘跡を願う人に、あなたたちは、いつも承知することです。
 それは、あなたたちにとって、よい時です。なぜなら、改心と神にたち返る時だからです。最愛の子らよ、亡びる危険にあるたくさんの霊魂の救いのために、あなたたちは、ゆるしの秘跡をさずけるようにしなさい。

人は、パンだけで生きるのではありません。
 人は、心の飢えをいやすために、天からくだった生けるパンによって生きるものです。こん日、どれほど沢山の人たちが、傲慢、きりのない利己主義、吝嗇、憎しみ、暴力、そして愛の大きな欠乏という恐ろしいどれい制度のうちに生きていることでしょう! あなたたちを救いにみちびく道は、交わりと愛の道だけです。それで、イエズスは、聖なるご聖体のはかり知れない賜をくださいました。
 イエズスがご聖体のうちにおいでになるのは、あなたたちの霊的生活の糧となって、本当に愛する能力をあなたたちのうちに養成するためです。
 イエズスが、ご聖体によってご自分をお与えになるのは、あなたたちの中で、あなたたちと共に、また、あなたたちを通して愛するためです。 
ご聖体のイエズスは、天からくだった生けるパンです。もう飢えることがないように食すべき糧です。もう渇くことがないように飲むべき水です。
 ご聖体のイエズスは、こん日、これほど分裂していて苦しんでいるあなたたちの教会、そして、これほど重い病気で危険にさらされているあなたたちの祖国のために、よいサマリア人となりたいのです。
 ご聖体のイエズスは、あなたたちをみな、愛と和解、交わりと平和、あわれみと救いの道に導こうと望んでおられます。柔和で、謙遜なイエズスのみ心に倣いなさい。そうすれば、あなたたちの霊魂は休むでしょう。
 今年、ブラジルは、全国聖体大会を行います。あなたたちの教会と祖国が、ご聖体のイエズスを深く礼拝して、ひれ伏しますように。

 みんなが、おいでになるイエズスに、門を開くようにと、私は願います。私は、再臨の母、そして、新しい時代に開かれる門です。この新しい時代は、イエズスのご聖体の王国の最も偉大な勝利と共に来るでしょう。
 このために、この特別な一年のうちに、ご聖体に対する礼拝とつぐない、愛の表敬があらゆる所で、再び開花するように呼びかけます。あなたたちの教会において、公式礼拝の荘厳な聖時間をもち、再び聖体賛美式をするようにつとめなさい。
ご聖体が、あなたたちの祈りと生活、表敬と教会的集いの中心となりますように。
 こうして、ご聖体のイエズスは、今日も、そのみことばをもって知恵の飢えを癒し、その恩寵をもって霊魂の飢えを癒し、その愛をもって、あなたたちの心の飢えを癒されるでしょう。
 またさらに、イエズスは、肉体的、霊的、道徳的な諸々の奴隷の鎖から、まことの解放という大きな賜をお与えになるでしょう。
そうすれば、あなたたちみなのうちに、神から創られ、愛され、贖われ、聖とされて救われた神の子としての貴い尊厳が、再び輝くことでしょう。
 今、このチェナクルムを去るにあたって、あなたたちはブラジル全国における新しい福音化の使徒となりなさい。私は、汚れなき私の愛をもってあなたたちと一緒に生き、母としての私の祝福で、あなたたちを支えます。

『司祭から最愛の子 司祭たちへ』ゴッビ神父 司祭のマリア運動発刊

'88・6・7
'88・6・10

お詫び

*『信徒通信』6月号聖母欄(1)において、ふりがなが、左下方にずれてしまい、読みづらくて申し訳けありません。

#353 深い傷

私は、あなたたちの無原罪の母です。私は、悲しむ者の慰めです。私の子よ、あなたのこの旅路に、どれほどたくさんの苦しみが待っていることでしょう。一方では、あなたは、私の司祭たち、特にたくさんの信者たちが、わたしの呼びかけに、これほど寛大に答えてくれるのを、あなたは見ていますが、他方、深い傷と大きな苦しみとを、いたる所に見ています。これは、今あなた達が生きているところの悪い時代のしるしです。
 神を排斥し、無意味な、そして希望のない道を歩む人々は、苦しんでいます。愛のない無限の砂漠になった世界のなかで、いのちに生まれてくる小さな人々は、苦しんでいます。悪のすべての経験をしいられ、不潔と麻薬がこれほど広がっていることによって、裏切られてしまう若者は、苦しんでいます。
 大人たちも、家庭の中に侵入した分裂と離婚の恐ろしい、治りにくい悪のために、苦しんでいます。
 ひとりぼっちの孤独の中に見捨てられ、家族からも、社会からも堪えられない重荷のようにみなされている老人たちは、苦しんでいます。
 天罰の日には、深い苦しみにみちあふれていることでしょう。
 失望してはなりませんよ。私の汚れなき心の避難所にお入りなさい。私の光が導いてあげるままにまかせなさい。私の光は、ますます輝くでしょう。今は、私の時だからです。私は、あなた方のすべての傷をやわらげる露(つゆ)です。私は、あなた方のあらゆる苦しみに対して慰めとなるのです。
 私は、あなたたちの側にいて、あなたたちを、救いと喜びの聖主に導くやさしい母なのです。

『司祭から最愛の子 司祭たちへ』ゴッビ神父 司祭のマリア運動

'88・6・7
'88・6・10

カトリック聖歌集#502 Vidi Aquam 復活節

私は水を見た
私は聖殿の右側から
流れる水を見た
主を讃美せよ。
その水の恵みに浴する人はみな
救われて
叫ぶだろう、
主を讃美せよ、主を讃美せよ。

主を讃美せよ、
なぜなら主は聖なるお方で
その御憐れみは
永遠に絶えることがないからである。
栄えは聖父と聖子と聖霊とにあれ。
はじめにありしごとく
今も いつも 世々にいたるまで。
アーメン。

Vidi aquam
egredientem
de templo,
a latere dextro,
alleluja:
et omnes,
ad quos pervenit
aqua ista,
salvi facti sunt,
et dicent:
Alleluja, Alleluja

Confitemini Domino,
quoniam bonus,
quoniam in saeculum
misericordia ejus.
Gloria Patri, et Filio,
et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio,
et nunc, et semper
et in saecula saeculorum.
Amen.


画:ウィリアム・ブレイク(1805年頃の作)生命(いのち)の川『ヨハネの黙示録22・1〜2』
1990年ウィリアム・ブレイク展画集から